アフリカ中部連合
Union Centrafricaine
Central African Union
国旗 国章
公用語フランス語
英語
国歌インターナショナル・神よアフリカに祝福を?
国の標語我らの自由のために
(フランス語: Pour notre liberté )
(英語: For our freedom)
首都ヤウンデ?
書記長ピエレ・ンゴロ?
政治体制自主管理社会主義
評議会共産主義
憲法アフリカ中部連合憲法?
面積3,018,108km2
人口49,865,657人
GDP(MER)910億ドル
通貨中部アフリカ・フラン?(CAF)
中央銀行連合評議会銀行?
時間帯UTC+1
領域

アフリカ中部連合はアフリカ中部に位置する社会主義国家。首都はヤウンデ?である。

西にシーランド帝国領ナイジェリア、南はアレイトス連邦領アンゴラ、東はダルフール・スルタン国に挟まれている。



歴史

人類誕生

アフリカ中部連合はアフリカ大陸中央部に位置する。南部は熱帯性の気候下にあり、人類が発生した環境に近い。中部にあるチャド湖の100km東方にはガザール・ワジ と呼ばれる枯れ谷が200kmにわたって伸びている。1995年、ワジの北端に位置するコロ・トロで300万〜350万年前のアウストラロピテクスの下顎骨の一部の化石を発見された。これは、最も古い時代のの化石の一つである。初期人類の化石が大量に発見されているオルドヴァイ渓谷などアフリカ大地溝帯の外部にも人類の祖先が生存していたことが分かった。またチャド地方付近では4万年前から1万年前までは黒人とピグミーの生活圏の境界になっていた。

先史時代

国土の南部に位置するシュム=ラカ遺跡で、紀元前5000年頃のものと思われる土器が鍬状石器と共伴して発見されている。また同時期に磨製石斧の出土例が国内で見られる。土器を使用する農耕民が早くから定住していた証拠と考えられる。

中部から北部にかけての地域は、現在東アフリカをはじめ広く話されている東バンツー諸語の起源地と考えられ、紀元前3000年から同1000年頃にかけて東部バンツー諸語の祖語が話されていたと考えられている。

紀元前1000年紀頃には村落が形成されるようになる。用途不明の深いピット(柱の穴のような小さな穴)が多数確認されたほか紀元前4世紀頃の鉄器が発見されている。このような遺跡は全国各地で確認されている。

国家形成

アフリカ中部に興った最初の文明は、5世紀にチャド湖周辺から移住してきたソー族の国家である。このとき、カメルーンに青銅器が伝わった。ソー族の記録は7世紀のアラブ人地理学者によって記録されている。

7世紀に至ると、サハラ地域を交易の場とするアラブ人商人との接触が始まった。主な貿易品目は塩、皮革、青銅、象牙である。この時期にスンナ派イスラームも伝わった。アフリカ大陸東岸では、イスラーム商人のダウ船による交易が活発だったため、海岸沿いにイスラームが現在のモザンビークにまで伝わり、東アフリカ沿岸部にスワヒリ文明を築いた。他方、アフリカ大陸西部のイスラーム商人は内陸の交易路を用いていたために熱帯雨林を通過できず、北緯5度のカメルーンが南限となっている。現在でも北部を中心に国民の約5%がムスリムである。

帝国の成立


カネム・ボルヌ帝国の戦士
サハラ西南部には帝国が次々と興った。現在のモーリタニア南部を中心として4世紀に成立したガーナ王国、12世紀〜15世紀には現在のマリ共和国を中心としたマリ帝国、1464年に現在のマリ、モーリタニア南部、ナイジェリア北部、ニジェールを版図として成立したソンガイ帝国、1848年に成立したトゥクロール帝国などである。いずれもニジェール川流域に位置する。

しかし、アフリカ中部連合が属するアフリカ中央部は帝国の成立に適しておらず、唯一、カネム・ボルヌ帝国が成立しただけであった。カネム・ボルヌ領域の版図はチャド湖の南西岸を中心とした半径200〜300kmの領域であった。9世紀に成立し、19世紀に騎馬民族であるフルベ人に滅ぼされるまで約1000年間、影響を保持し続けた。

南部の国家成立は遅れており、15世紀にコンゴ地方から移住してきたドゥアラ人やバミレケ人がようやく村の集団を形成した。

西洋との接触

アフリカ中部の諸民族が西欧と最初に接触したのは1470年である。

ジョアン一世
ポルトガルは1385年に独立後、イスラーム勢力を抑え、領土拡張期に入った。1415年にはポルトガル王ジョアン1世が現在のモロッコ北部に位置する戦略港であるセウタ攻略を決定、息子であるエンリケ航海王子とともに、奪取に成功した。その後、エンリケ航海王子は海洋貿易に活路を求めた。イスラーム商人の仲介を経ることなく、インドの金や香料を入手するためである。これが大航海時代の始まりである。最初の探検隊は1418年に出発した。数次にわたる探検の結果、アフリカ大陸の海岸を飛び石のように南下する。1460年エンリケの死によって、一時、探検航海が遅延したが、1470年12月下旬、ついにアフリカ中部のカメルーン地方に到達した。このときは交易所などを開くことはせず、探検を継続した。その後、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込み、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達、エンリケ航海王子の目標を達成した。サハラ以南のアフリカ探検はポルトガルが先行したため、アフリカ大陸西岸諸国の国名にはポルトガル語由来のものが残されている。カメルーン(エビ)、ガボン(フードの付いたマント)などが良い例である。

バルトロメウ・ディアス
当時のポルトガルはいわゆる植民地獲得ではなく、交易所や商館の建設、貿易拠点を守り、船舶に補給を施す要塞の建設を進めた。これは内陸部に到達するための手段がないこと、内陸部の国家、帝国に対して軍事的に優位に立てなかったことによる。マリ帝国のような内陸部の国家と独占的な貿易協約を結ぶことで、海岸までの輸送、運搬手段を確保せずに済み、最低限の軍事力で交易を進めることができた。

バスコ・ダ・ガマ
しかし、ポルトガルの優位は1530年代に早くも崩れ始める。フランス、イギリス、オランダなどの後発国がポルトガルの交易地そばに自国の交易地を開き、圧倒したからである。

奴隷貿易

ギニア湾は奴隷貿易の拠点として知られていた。1530年代になると、組織的な奴隷貿易が始まった。奴隷貿易の中心地は現在のコートジボワール(象牙海岸)やガーナ(黄金海岸)だったが、アフリカ中部連合の地域でも進められていた。

奴隷船
奴隷貿易はいわゆる大西洋三角貿易として始まった。輸出された奴隷はアメリカ大陸、特に西インド諸島に運ばれ、サトウキビのプランテーション農園労働者となった。農園はサトウキビから抽出した糖蜜を北アメリカのイギリス植民地に輸出、そして、糖蜜を発酵、蒸留したラム酒はギニア湾に輸出された。

1807年の大英帝国内の奴隷貿易禁止、1834年の奴隷制廃止に至るまで、アフリカ中部連合の地域は奴隷貿易に300年間、苦しんだことになる。イギリスが奴隷貿易を廃止した理由は、人道的な見地からということもあったが、既に奴隷を輸送するよりも、象牙と椰子油を取引する方が利益が上がったという理由もある。

奴隷貿易には思わぬ副産物もあった。当時、アフリカ大陸中央部の熱帯雨林やギニア湾岸の周囲ではヤムイモが主食となっていた。ヤムイモの繊維は約5000年前の遺跡からも見つかっている。一方、ポルトガルは、奴隷船で奴隷を維持するために食物を必要としていた。ブラジルで発見したマニオク(キャッサバ)を用いた。1670年代には広く栽培されるようになった。マニオクはイモであるため栄養繁殖で増えるものの、極めて栽培に適した性質がある。種イモを使うのではなく、30cm以下の枝を耕地に指すだけで根付き、イモを収穫できるからである。現在でも、中部アフリカの主要作物の収穫量1億トンのうち、6000万トンをマニオクが占める。アフリカ中部連合は食料自給率が100%を超える豊かな国だが、マニオクの栽培によるところが大きい。

ヤムイモ

マニオク(キャッサバ)

アフリカ分割

1804年、史上初の軌道向け蒸気機関車が発明され、鉄道の時代が始まった。蒸気機関車が登場するまで、大量の物資や人員を長距離輸送するには船舶を使うしかなかった。陸上輸送においても運河が重視されており、運河に浮かべた輸送船を運河沿いの馬が引くという形態が広く見られた。だが、運河に頼る方法は海岸から急峻な地形が立ち上がるアフリカ大陸には向かなかった。

蒸気機関車が発明されることで、1870年代に入り、初めてアフリカ大陸内部への進入が可能になった。アフリカの分割が始まった。1870年代の状況は、オスマン帝国がアフリカ大陸北西部を押さえ、フランス領アルジェリアやケープ植民地を除き、西欧諸国は交易に必要な点と線を確保していたに過ぎなかった。内陸に侵入、確保するためは大量の人員、物資が必要であったからだ。一方、植民地を面として抑えても、どれほどの利益が得られるかは不透明だったからだ。

そこで、当初はアフリカ沿岸部の民族と個別の保護条約を結ぶという形で植民地化が進んでいった。アフリカ中部連合の地域においては、イギリス、フランス、ドイツが交渉を競い合った。その結果ガボンやコンゴはフランスの影響下に入り、カメルーンはドイツのものとなった。

第一次世界大戦後は、ドイツが敗北したためカメルーンはイギリスとフランスに分割された。


植民地支配の中で、ヨーロッパ列強は当然のことながら自分達の利益確保へと走り、現地の人々のことなど眼中にもなかった。その結果インフラなどは彼らの利益を上げるために整備されたことになる。人々は強制労働等で搾取され、日頃より不満を徐々に増幅させていった。

1930年代に入ると、アフリカ中部連合地域ら植民地状況から自治を求める人々により、民族主義運動が進んだ。

1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が勃発した後、1940年5月に電撃戦によってドイツがフランス東部を制圧、6月10日にはフランス政府が首都パリを放棄し、6月21日にペタン元帥を首班とするヴィシー政権がドイツに降伏した。ヴィシー政権はドイツから自治を認められており、フランスの海外領土はそのままヴィシー政権の管理下に置かれた。駐留する総督と軍もヴィシー政権を支持していた。これは保守的な政策を唱えたヴィシー政権の政策が古い植民地に受け入れやすかったこと、1940年7月3日にイギリス海軍がヴィシー政権下のフランス艦隊を攻撃、破壊したことなどに原因がある。一方、ロンドンに逃れたド=ゴールは、師団長の身分ながら自由フランスを結成する。ド=ゴールは植民地の資源と人材に注目し、ヨーロッパではなく、アフリカでの戦闘を望んだ。1940年9月23日、まずはアフリカ大陸最西端に位置するセネガルの首都ダカールをイギリス軍と自由フランスが共同で奪回する作戦を実行したが、計画が事前にヴィシー政権に漏れていたため失敗に終わった。

このように、降伏後のフランスはペタン率いるヴィシー政権とド=ゴール率いる自由フランスに分裂したが、現地のフランス人の多くはヴィシー政権の政策を評価していなかった。1940年10月8日にはド=ゴールがドゥアラ港に上陸、さらにチャド、コンゴを訪問し、フランス領カメルーンにて自由フランスの支持基盤を固めた。ド=ゴールは現地の諸民族の協力を得ることに成功し、自由フランス軍の勢力を結集、10月27日には重要拠点のガボンを攻略している。1944年にはフランス領赤道アフリカのブラザヴィルでブラザヴィル会議が開催され、フランス本国と一体不可分の枠組みの中でアフリカ植民地に一定の自由を認めるブラザヴィル宣言が発令された。以上のように、フランスのアフリカ植民地は自由フランスの勝利に貢献したのであった。

第二次世界大戦の終結後もフランスの支配は継続された。第二次世界大戦後のカメルーン人の法的地位は戦前よりも改善され、1947年から1953年までに312億CFAフランが投資されるなど、インフラストラクチューの整備を主軸とした開発政策が進んだ。しかしながら、アフリカは脱植民地化時代を迎えていた。アフリカ中部連合地域の諸民族の独立への希求は高まり、カメルーンでは1948年にバミレケ人が中心となってカメルーン人民同盟が結成され、植民地支配からの脱却を綱領とするアフリカ中部連合の地域の最初の政党となった。人民同盟は1955年5月に勃発した暴動によって人民同盟とその傘下の大衆運動は非合法化され、以後人民同盟はゲリラ闘争を開始した。

カメルーン人民同盟の武装闘争に刺激を受けた各地の活動家達は独立を強く求めることとなった。カメルーンではアンドレ・ムビダとアマドゥ・アヒジョらがカメルーン民主ブロックを結成し、1956年12月の選挙を経て、1957年5月にムビダを首相、アヒジョを副首相とした政府が成立し、1958年2月には失脚したムビダに替わってアヒジョが首相に就任した。アヒジョ首相の下で独立に向けた準備が進み、1959年にフランスが独立を承認し、1960年1月1日にはカメルーン共和国としてフランスから独立した。ガボンやコンゴなどといった他地域もこれに続いた。

アフリカ中部連合成立まで

フランス領カメルーンの独立後、1960年4月にそれまで植民地政府の首相を務めていたアマドゥ・アヒジョが初代大統領に就任した。一方、戦後のイギリス領カメルーンはナイジェリアとの統合かフランス領カメルーンへの合流かを巡って分裂していたが、1955年にジョン・フォンチャがカメルーン民族民主党を結成し、フランス領カメルーンとの統合を呼びかけた。同1955年にエマニュエル・エンデレイがナイジェリアとの統合を主張するカメルーン民族協議会を結成したが、1959年1月の選挙ではフランス領カメルーンとの統合派のフォンチャが勝利した。両者は対話による解決を図り、1961年にイギリス領カメルーンの北部はナイジェリアへ、南部は旧フランス領カメルーンへと分かれることになった。南部は1961年10月1日に旧フランス領に合流した。

カメルーンやガボン、コンゴ地域はいずれも独立を達成したが、外国資本や汚職が蔓延り人々は依然として貧しいままであった。1960年代後半になると人々が体制に対し強い不信感を持つようになった。1971年4月にコンゴで革命がおきた。主導者のマリウス・カーバンを中心として、サンディカリズムを掲げるコンゴ人民共和国が誕生した。その動きに合わせてガボンやカメルーンでも革命が発生しサンディカリズム化した。1972年4月に3国が合同してアフリカ中部連合を建国した。

マリウス・カーバン

革命成功を喜ぶ兵士たち

成立後

アフリカ中部連合は建国後すぐに評議会共産主義や自主管理社会主義に則った政治を開始した。工場や自治体の中から結成された民主的な労働者評議会が労働者階級組織や政府権力を樹立した。

スペイン領であった赤道ギニアでも1973年5月に革命が起き、赤道ギニア人民共和国の成立を宣言、スペインは島嶼部に撤退した。直後の1973年7月にアフリカ中部連合との合併を宣言し、住民投票を実施、圧倒的多数の支持により編入された。

中央アフリカ侵攻
1974年5月には政情不安が続いていた中央アフリカに侵攻した。中央アフリカを解放したアフリカ人民軍は政治の腐敗に苦しんでいた民衆達によって歓迎された。7月には人民投票で圧倒的多数の支持を得て併合された。

チャド侵攻
翌1975年にはチャドに侵攻した。チャドでは1972年から内戦が繰り広げられており、アフリカ中部連合と同じサンディカリズムを目指す人民戦線と独裁を行っていた政府軍、そして国内各地を有力氏族が群雄割拠していた。その内戦に介入し、人民戦線を支援する形でアフリカ人民軍はチャドに入った。元々人民戦線派は国内の多くの国民から支持を得ていたことから、アフリカ人民軍も歓迎を受けた。1976年1月には国内の掃討が完了し、チャド社会主義共和国の樹立を宣言した。戦後処理はアフリカ中部連合の全面的な支援のもとで行われた。戦後処理がひと段落ついたところで、チャドは経済的にも強いアフリカ中部連合への組み込みを求め、1980年に人民投票を実施。9割を超える賛成により編入が決定。1981年2月にチャドはアフリカ中部連合に編入された。

この後、アフリカ中部連合は領土拡張より、国内の安定と経済発展を重視することとなり、領土拡張の無期限延期を宣言した。それ以来40年間にわたって領土拡張は行っていない。現在に至るまで政治は腐敗することなく、労働者評議会などの団体がうまく機能することにより順調に経済発展を進めている。
[END]

政治

アフリカ中部連合の国家像を定めるのはアフリカ中部連合憲法であり、1972年の憲法制定以来、1975年、1990年、2010年に改正された。

現在の第一書記はピエレ・ンゴロ?であり、国防委員長はイシドール・ムブバ?である。

ピエレ・ンゴロ

イシドール・ムブバ
アフリカ中部連合はマリウス・カーバンらによって評議会共産主義や自主管理社会主義のような政治・経済システムが導入された。

地方の労働組織会議場
端的に言うと、政府も経済も職場で選挙され権限委譲され常にリコール可能な労働者評議会によって管理される政治体制である。第一書記や国防委員長などといった政治委員も労働者評議会から選ばれる。もし彼らが暴走するのであれば、即座に人民投票によってリコールできるようなシステムを導入している。アフリカ中部連合は労働者が労働者評議会の連合を通して生産することを欲する労働者の民主主義であるとも言える。

こうした労働者評議会を束ねるのが「自主管理連合労働組織」である。分かり易く言うならば、「基礎組織」が職場であり、「労働組織」が工場、「連合労働組織」が会社であると考えるとよい。

この「基礎組織」はプロジェクトごとに随時、他の労働組織と連携を組む事も有り、それは「労働連合単位」と呼ばれていた。

こういった機構で最高権力を有するのが「基礎組織」であり、いわゆる上部機構は土台である基礎組織の意向を理解する事に務め、最大限尊重し、反映せねばならない。通常だと「トップダウン」と言って、上部機構から下部機構に決定された意志が伝わる仕組みとなっているが、「自主管理制度」は全く逆である。つまり「自主管理制度」においては、下から上に意志が伝わる仕組みとなっている。

「基礎組織」において労働者・技術者達は「労働者評議会」を組織し、「労働者評議会」において自分達の意思表明を行い、決定、意志形成される。「労働者評議会」の運営方法は、評議委員を選出し委ねるという間接民主的な仕組みではなく、「労働者集会」、「選挙・リコール」、「直接選挙」を中心として運営される。通常の大人数制でこういった直接民主制は不可能であり、そうした意味でも比較的少人数の職場単位で「基礎組織」は組織される必要があったのである。「基礎組織」ではまた、生産以外の事柄においても随時、委員会を組織した。

様々な組織で注目すべき事は、「軍事委員会」が殆どの基礎組織で常設されていたことである。これはアフリカ中部連合独自の「トータル・ナショナル・ディフェンス(国民皆兵)システム」を実行するための組織であり、武器・弾薬・食糧・燃料の保管、緊急時のパルチザン部隊兵士動員、サボタージュ活動、補給、情報、命令伝達、連絡、アフリカ人民軍との調整を行う仕組みである。

こうした「基礎組織」が組み上げられて「労働組織」、「連合労働組織」といった「上部機関」が形成されていくのだが、そうした「上部機関」に代表委員を派遣する場合は、選挙によって選出された代表委員は選出母体の基礎組織の意思を尊重し、自分自身の意見ではなく選挙母体の意思表明を行わなければならず、母体の決定意志に制約を受ける仕組みとなっていた。これが間接民主制でありながら、より直接民主制に近い委任代表制である。委任代表制の対義語であり多くの間接民主制で採用されている自由代表制では、一旦代表者に選出された後は選出母体の決定意思に制約を受けず、自分自身の意思で行動出来て、次の選挙時に審判を受ければ良い事である。しかし、アフリカ中部連合の委任代表制ではそういった勝手を許さないようにされていた。

「基礎組織」を中心に会社(企業)に当たる「連合労働組織」が組み上げられていたが、企業経営には財務、営業、対外機関・団体との折衝等の経営独自の専門的手腕が必要とされるので、当然ながら労働者・技術者だけでの経営は不可能である。そこで必ずプロの経営者が必要となってくる。そのために「自主管理機関」は企業経営専門のマネージャーを一般公募していた。そこで応募してきたマネージャー候補を「自主管理組織」が選挙や信任投票で正式に決定し、企業長をトップとする経営機関を設立、経営を委ねる。資本主義企業では出資者が経営者と労働者を雇うが、「自主管理制度」では「自主管理機関(労働者や技術者)」が経営者を雇う形になる。当然であるが、最高意思決定権は「自主管理組織」が握っているので、労働者・技術者が間接的に経営をチェックする形となる。さらに労働組合も認められていたので、労働組合を通じてチェックすることも可能である。

評議会共産主義を取り入れたアフリカ中部連合はレーニン主義や人民民主主義を権威主義として拒絶している。社会民主主義は社会主義へと至る移行段階として認めている。また汚職や不正を防止できるようなシステムを完璧に整備した結果、他の多くのアフリカ諸国で見られるような政治的腐敗もなく、経済的格差も他国に比べて少ない。多くの国民はこのシステムを高く評価していた。しかし、マルクス主義研究が進んだ結果、アフリカ中部連合は次の段階へと進むことになる。

新しい社会主義へ

詳しくは持続可能な社会主義(アフリカ中部連合)を参照
アフリカ中部連合は経済発展を強く推し進めてきた。部分的な市場経済の導入など、成立以来試行錯誤を重ねてきた。近年のマルクス研究の成果により、アフリカ中部連合は新たな段階へと進むことになる。それは「持続可能な社会主義」である。

「持続可能な社会主義」とは、経済的成長を目指すグローバルな資本主義を始め、マルクス・レーニン主義に至るまで、人的搾取や環境破壊を生むとして、それを批判する考えである。経済成長を盲目的に信仰する現代消費社会の価値規範そのものを問い直し、資本主義の世界の中で疎外されてきた、経済以外のものに価値を置いた生活を再評価・模索することである。

大胆な再分配やグローバル経済における物質の削減、ケアや連帯、自治を共通の価値とすることで、これまでの大量生産・大量消費の様式から、生態系のウェルビーイング(幸福)を優先させた、よりサステナブルでローカルな経済・政治活動への移行を目指す。エコロジカル・フットプリントなどの環境負荷の削減、不平等や排除などの社会的不公正の是正が提案される。

「持続可能な脱成長」が実現された社会においては、物質的なモノの蓄積は人々の中での主要な価値とみなされず、効率性よりも充実性、テクノロジーの革新だけでなく、人々が生き生きと、シンプルに生きるための技術や社会的革新が追求される。

現在は旧体制から新体制への移行期として、徐々に変革を遂げている。

国防

詳しくはアフリカ人民軍を参照
アフリカ中部連合は国防・軍事組織としてアフリカ人民軍を保有している。1972年のアフリカ中部連合の設立にあわせ、コンゴ人民軍・カメルーン人民軍・ガボン人民軍が再編成され設立された。アフリカ人民軍は設立当初よりチェコスロバキア社会主義共和国などの社会主義諸国より支援を受けてきた。

兵士たち
アフリカ人民軍の目的は国土の防衛と、アフリカの解放である。トータルナショナルディフェンスという国民皆兵システムを導入し、軍事力の維持に努めている。

国際関係

アフリカ中部連合は自主管理社会主義・評議会共産主義をもってアフリカを植民地主義、帝国主義、資本主義、自由主義、ファシズムから解放し、全てのアフリカ人に幸福と繁栄をもたらすことを最終目標としている。そのため、アフリカ中部連合は社会主義国や反植民地主義を掲げる国との関係を深めることを重視している。また包括的国交樹立条約に署名していないため、個別に国交樹立を行なっている。

貿易

貿易取り扱い品目
輸出輸入
原油
石油

マンガン
ウラン
貴石・貴金属
木材
カカオ
化学品
機械類等
電気機器
機械類
石油製品
鉄鉱石
非鉄金属
レアメタル類
車両
医療品等
貿易一覧
カトラス社会主義共和国
輸出輸入
石油

マンガン
木材
カカオ
小麦
鉄鉱石
石炭
産業用機械
チェコ=スロバキア連邦共和国
輸出輸入
石油

マンガン
木材
カカオ
小麦
産業用機械
乗用車
兵器

地方行政区画

アフリカ中部連合の地方行政区画は州と県や郡、市町村がある。地方自治が推し進められており、これらは自主管理社会主義を行う上でも重要である。

地方行政区画一覧

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地図の色州名州都
黄色カメルーン州ヤウンデ
ガボン州リーブルヴィル
コンゴ州ブラザヴィル
ウパンギ・シャリ州パンギ
チャド州ンジャメナ
地図の番号県名県都州名
1アダマワ県ンガウンデレカメルーン州
2ヤウンデ県ヤウンデ
3ベルトゥア県ベルトゥア
4サハラ・カメルーン県マルア
5リトラル県ドゥアラ
6ガルア県ガルア
7バメンダ県バメンダ
8バフーサム県バフーサム
9エボロワ県クリビ
10ブエア県ブエア
11エスチュエール県リーブルヴィルガボン州
12オートオゴウェ県フランスヴィル
13モワイエン・オゴウェ県ランバレネ
14ングニエ県ムイラ
15ニャンガ県チバンガ
16オゴウェ・イヴィンド県マコクー
17オゴウェ・ロロ県クラムトゥ
18オゴウェ・マリティム県ポルジャンティ
19ウォレウ・ンテム県オイェム
20ギニア・ガボン県バタ
21ブエンザ県マディングコンゴ州
22キュヴェト県オワンド
23西キュヴェト県エウォ
24クイルー県ポワントノワール
25レクム県シビティ
26リクアラ県アンフォンド
27ニアリ県ルボモ
28プラトー県ジャンバラ
29プール県キンカラ
30サンガ憲ウェッソ
31ブラザヴィル県ブラザヴィル
32バミンギ・バンゴラン県ンデレウパンギ・シャリ州
33バス・コト県モバイェ
34オート・コト県ブリア
35オー・ムボム県オボ
36ケモ県シブツ
37ロバイエ県ムバイキ
38マンベレ・カデイ県ベルベラティ
39ムボム県バンガスー
40ナナ・メンベレ県ブアル
41オンベラ・ムポコ県ビンボ
42ワカ県バンバリ
43ウハム県ボサンゴア
44ウハム・ペンデ県ボゾム
45バカガ県ビラオ
46ナナ・グリビジ県ガガ・バンドロ
47サンガ・ムバエレ県ノラ
48バタ県アティチャド州
49シャリ=バギルミ県マッセニャ
50ハジェル=ラミ県マッサコリ
51ワジ・フィラ県ビルティン
52バル・エル=ガゼル県ムソロ
53ボルク県ファヤ・ラルジョー
54東エネディ県アムジャラス
55西エネディ県ファダ
56ゲラ県モンゴ
57カネム県マオ
58ラク県ボル
59ロゴン・オクシデンタル県ムンドゥ
60ロゴン・オリエンタル県ドバ
61マンドゥル県クムラ
62東マヨ・ケッビ県ボンゴル
63西マヨ・ケッビ県プラ
64モワイヤン・シャリ県サール
65ワダイ県アベシェ
66サラマト県アム・ティマン
67シラ県ゴス・ベイダ
68タンジレ県ライ
69ティベスティ県バルダイ

地理


端的に言うと、国土の北から南にかけて乾燥→湿潤、南部は西から東にかけて高度が低→高になっている。
国土全体が熱帯に属し、国の南部は赤道に位置しているため、周辺は年中高温多雨な熱帯雨林気候が広がっている。その他中はサバナ気候となっていて、雨季と乾季の差が明瞭となっている。北部にはサハラ砂漠が広がっていて、住む人はまばらである。北部に行けば行くほど乾燥し、南部に行くほど温暖湿潤になることからミニアフリカと呼ばれることもある。国土の半分弱が熱帯多雨林に覆われていて、自然保護も手厚いため、手つかずの豊かな自然が多く残されている。またサバナや砂漠も多く存在する。森林には、ゾウ、ゴリラ、チンパンジーなどの大型哺乳類が多数生息していて、豊かな生態系を構築している。

カメルーン州


地形図
5つの地理区分に分けられる。海岸平野はギニア湾から15キロ - 150キロまで広がり、森林で覆われ、平均標高は90メートル。非常に暑く、世界でもっとも湿度が高いところがある。南部カメルーン高地は熱帯降雨林で覆われるが、乾季と雨季が海岸平野より区別されるため湿度はやや低い。平均標高は650メートル。

また、同国は世界有数の火山国として知られており、カメルーン火山列はその所以ともなっている。この火山列は隣国のナイジェリア東部と同国西部との間に存在し、最高峰のカメルーン山(4,095メートル)のある海岸から北部で国を東西に横断する形で連なる。加えて、カメルーン山はアフリカ大陸において最も大きい火山の1つとなっている。
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ルムスィキ
北部のチャド湖に近いマンダラ山地のルムスィキは高くそびえる奇岩で知られる観光地である。これはマグマが噴出したときに溶岩が火山の中で固まった岩頸と呼ばれるもので、もっとも高い山峰は1,224メートルである。

なお、北西州にあるオク火山の火口湖のひとつであるニオス湖では1986年に最大規模の火山ガス災害が起こった。湖底に溶け込んでいた二酸化炭素の噴出により、1,700人以上が死亡した。
  • 気候
気候は、特に西部高地は温暖で雨が多く、土地は肥沃である。その中でも広大な地域に当たるカメルーン草原はアフリカ中部連合を代表する草原で、19世紀末の植民地時代から国際的に知られている。

サバナ地帯である中部のアダマワ高地を境に、ステップが広がる北部と熱帯林に覆われた南部とに分かれる。平均標高は1,100メートル、気温は22 - 25度で雨が多い。アダマワ高地は分水嶺でもあり、主要河川は北部のベヌエ川、ロゴーヌ川と南部のサナガ川。サナガ川は中央部のムバカウ湖を水源としてドゥアラ市の南方でギニア湾に注ぐ全長890キロの最大河川である。ケッペンの気候区分ではほぼ全域が熱帯に属す。北部 から南部に移動するにしたがい、気候が湿潤となる。北部低地の標高は300 - 350メートルで、気温は高いが、雨が少ない。

北部の乾季は7月と8月だが、南部はこの時期に雨季となる。アフリカ大陸で7番目に高いギニア湾岸のカメルーン山の南西斜面は多雨で有名であり、年降水量10,680ミリに達する。

気温の年較差は全国で5 - 10度。首都ヤウンデ(北緯3度50分、標高730メートル)の年平均気温は23.2度。年降水量は1,560ミリ。

ガボン州


地形図
中央部を西から東へオゴウェ川が貫流しており、この流域がガボンの主な領域となっている。大西洋沿岸は平野となっており、オゴウェ川下流にはデルタが広がっているが、内陸に入ると北部のクリスタル山地や南部のマヨンベ山地といった急崖が存在し標高が450mほど上がる。急崖の東は高原となっており、オゴウェ川の支流が刻む渓谷によってシャイユ山地などいくつかの山地に分割される。ムニ川の河口近くのポールジャンティ市のすぐ西にあるロペス岬であり、そこから南の海岸はマングローブやラグーンが多い。

ガボン州の88.5%が森林で、近隣諸国と比べ人口密度が低いため、手つかずの豊かな自然が多く残されている。アフリカ森林には、ゾウ、ゴリラ、チンパンジーなどの大型哺乳類が多数生息している。
  • 気候
ガボン州は気候は領域のほとんどがサバナ気候であるが、ガボン州州都リーブルヴィルを含む北部や東部の一部は熱帯モンスーン気候となっている。首都リーブルヴィルの降雨量は2510mmであり、雨季の9 - 5月が毎月約300ミリだが、乾季の6 - 8月は3ヶ月で35ミリと極端に少ない。1日の最高気温は平均29 - 30度、最低気温は20 - 23度である。

コンゴ州


地形図
州南部にあるシャイユ山地に低い分水界が走っており、これによって水系は二分されている。分水界の南西部は主にクイルー川の水系となっており、丘陵や山地が多く起伏が激しい地形となっているためクイルー川の航行は不能である。海岸部近くにはマヨンベ山地が走り、そこから海岸まではわずかな平野が広がっている。一方分水界より北東はコンゴ川流域となっており、流域南部のバテケ高原からガボンとの州境にかけては山地が広がるものの、東部は広大なコンゴ盆地の一部であり、高低差の少ない平坦な地形となっている。西部のガボンとの州境はおおむねオゴウェ川流域とコンゴ川流域の分水界に沿ったものになっている。北部はコンゴ川の支流であるウバンギ川が、中部はコンゴ川本流がコンゴ(ザイール)との国境をなしている。コンゴ川本流部の南端にはマレボ湖が存在し、コンゴ盆地と急流部の境界となっているほか、マレボ湖北端には首都ブラザヴィルが存在する。また、マレボ湖に浮かぶ中州であるンバモウ島はアフリカ中部連合領となっている
  • 気候
コンゴ州の気候は全般的に高温多湿で、州都ブラザヴィルの年平均気温は25℃、年降水量は1473mmである。気候は南部がサバナ気候に属し、北上するほど降水量が多くなって、北部は熱帯モンスーン気候や熱帯雨林気候の地域が多くなっている。海岸部から中部のバテケ高原付近までは、熱帯雨林の広がるマヨンベ・シャイユの両山地以外はサバンナが広がり、北部は熱帯雨林となっている。

ウパンギ・シャリ州


地図

ウパンギ川
ウパンギ・シャリ州の大部分が海抜600m程度の緩やかな高原となっており、中央部を東西に分水界が走っている。この分水界の北は広義のチャド盆地に属し、シャリ川水系となっている。シャリ川は国土中央部に端を発し、北流してチャド湖へと流れ込むほか、この水系に属するロゴーヌ川などいくつかの支流も同様に北流する。分水界の南側はコンゴ川水系であり、広義のコンゴ盆地に属する。コンゴ川最大の支流であるウバンギ川はコンゴとの国境をなすほか、バンギまでは大型船舶の遡航が可能であり、重要な交通路となっている。この両河川は同国にとって非常に重要であり、「ウバンギ・シャリ」という州名はこれに由来する。このほか、西部にはやはりコンゴ川の支流であるサンガ川が流れている。北東部にはボンゴ山地が聳え立つ。また北西部にも山地が存在し、カメルーン州との境界線に位置するンガウィ山(標高1,410m)は中央アフリカの最高峰となっている。
  • 気候
ウパンギ・シャリ州は降水量は緯度にほぼ比例し、南部ほど降水量が多く北に向かうほど乾燥していくが、国土の大部分はサバナ気候となっている。ただし国土南端のウバンギ川沿いや南西部は一部に熱帯モンスーン気候の地域があり、また最も乾燥した北東端はステップ気候となっている。植生もこれにほぼ準じ、中部から北部にはサバンナが広がり、南部に全土の8%程度の熱帯雨林がある。

チャド州


地形図

地図
チャド州の大部分をチャド盆地が占めており、特に中部は平坦な地形をしている。ただし、北部にはティベスティ山地があり、ここの楯状火山のエミクーシ山(標高3445 m)が最高標高地点である。また、東部のスーダン国境付近にもエネディ山地やワダイ山地などの山地が広がる。南部にはチャド湖へ注ぐシャリ川やその支流ロゴーヌ川が流れる。チャド湖は西端部に位置し、7千年前に33万 km2 もあった巨大な湖の名残だが、1980年代から1990年代にかけては沙漠化によって極端に縮小し、湖の存続すら危ぶまれた。その後1998年ごろから水位は回復に向かい、2003年以降はさらに回復傾向が強まった。
  • 気候
チャド州の気候区分はほぼ緯度と対応しており、一般に北へ行くほど乾燥が酷くなる。北半分は年間降水量が200mmに達しない砂漠気候であり、わずかなオアシスを除き植生はほとんど存在せず、広大なサハラ砂漠が広がっている。中部は年間降水量が200mmから600mm程度のステップ気候であり、乾燥した草原が広がるサヘル地帯となっている。州都ンジャメナもこの地域に位置し、年間降水量は528mmとなっている。南部は降水量が600mmから1500mm程度のサバナ気候であり、湿潤草原と灌木からなるサバナが広がる。

経済

概要

アフリカ中部連合のGDPは約910億ドルである。
アフリカ中部連合が成立してからは自主管理社会主義という特殊な政治・経済システムが導入された。このシステムは通常の社会主義とは異なり、市場経済もある程度は市場経済は認めていた。アフリカ中部連合では生産手段である、工場や工業機械の他に、経営方針も労働者によって管理されるものとされ、その範囲内で経営責任者が労働者によって募集されるということがよくあった。またアフリカ中部連合はモノカルチャー経済からの脱却を目指し、輸出品目の多角化や工業化に特に力を注いできた。そのためか現在はアフリカ有数の工業地帯となっているる。また経済的格差が少なく国民の生活の豊かさはアフリカ最高クラスである。

産業

おもな産業は農業や林業から鉱工業、軽工業、重工業まで幅広い分野がある。
農林水産業
農作物で輸出されるものは北部の綿花、南西部のコーヒーとカカオであり、1980年にはカカオが総輸出の18.9%、綿花が4.1%を占めていた。主食は南部ではプランテンバナナやキャッサバ、北部ではトウモロコシやソルガムなどであり、イモ、特にキャッサバやタロイモ、ヤムイモの収穫量が多い。農業は機械を導入した大規模大量生産型であり、収穫量向上や疫病対策のための品種改良が盛んに行われている。そして農作物の余剰生産物が都市部や他のアフリカ諸国に輸出されている。また家畜放牧は北部で盛んであり、なかでも中北部のアダマワ高原で広く行われている。漁業には1万人ほどが従事し、年間約5万トンの漁獲量がある。林業は自然保護の面からも計画的かつ慎重に行われていて、違法伐採は重罪になる。農林水産業に従事する人の数は機械化の功績もあり、1975年時点の74パーセントから2020年時点の38パーセントまで減少し、第一次産品の加工を中心とする工業やサービス部門が成長していると言える。

ヤムイモ

キャッサバ

木材を輸送している様子
鉱工業
ギニア湾では石油資源が極めて豊かであり、ギニア湾条約によってその利権の80%をアフリカ中部連合が得ている。そのためアフリカ中部連合の最大輸出品は石油となっていて、輸出品全体の40%を占める。その他マンガンは世界第4位の生産量を誇るモアンダ鉱山から採れる。その他ウランや金、天然ガス、カリ鉱石、鉛、亜鉛などの鉱山開発もすすめている。

ギニア湾の海底油田の海上プラットホーム
工業
近年では機械類や重工業が発展してきている。

世界でも最新レベルのAIやIoTを活用した家電工場

発電

発電は再生可能エネルギーの導入が強く推し進められている。建国以来インフラ整備が急ピッチで進められたため、電化率は86%を誇る。
51%石油火力発電
20%水力発電
11%石炭火力発電
8%地熱発電
6%太陽光発電
4%その他(風力発電等)

石油火力発電所

カメルーン山の麓にある世界最大級の地熱発電所

交通

アフリカ中部連合のインフラは非常に発達している。これは建国以来進めてきたインフラ整備の努力の賜物である。初代議長であったマリウス・カーバンは、「経済発展はインフラの整備から」と考えていた。

陸路

鉄道
詳しくはアフリカ中部連合の鉄道?を参照

アフリカ中部連合内の路線図

通勤型電車
アフリカ中部連合の鉄道は全て国有化されており、アフリカ国有鉄道と呼ばれている。主要都市間や主な資源産出地、国境沿いに路線を伸ばしている。現在建設中の路線も数多くある。
道路
詳しくはアフリカ中部連合の道路?を参照

主要道路地図。オレンジが高速道路であり、茶色はその他主要な道路である。

建設中の高速道路

典型的な高速道路の風景
アフリカ中部連合内の道路網は網の目のように広がっている。この結果、アフリカ中部連合内の物流や人の流れが促進され、経済発展の礎となっている。

海路

もっとも大きな港はドゥアラ港で、鉄道の通じる内陸部への物資の集散地となっている。このほか、海港としては北部のリンベやクリビ、南部のポワントノワール港やポワントノール港も重要である。旧イギリス領カメルーンの港であったリンベは周囲に油田が存在し、石油産業の重要拠点となっている。ドゥアラから南へ約150キロのクリビ港はかつて木材の輸出港だったが、チャド州のドバ油田からの原油パイプラインが伸びており、原油積出基地がある。また、ベヌエ川に面する北部のガルア港も重要な河港であるが、利用は増水期に限られている。

空路

主要な空港としては、ドゥアラ国際空港、ヤウンデ国際空港、ガルア国際空港、ンジャメナ国際空港、リーブルヴィル国際空港、ブラザビルのマヤマヤ空港、ポワントノワール空港がある。
航空会社は、国営のアフリカ航空(Air Africa)や州営のチャド・エアなどがある。

社会

民族・言語

アフリカ中部連合は領域が広いため、多民族国家となっている。ここでは分かりやすいように州別に見ていく。
カメルーン州
住民は、南部と西部はバントゥー系のファン族、バミレケ族(英語版)、バカ・ピグミー、中部はバントゥー系のウテ族、北部はスーダン系のドゥル族、フラニ族(サヘルに居住)などに分かれる。民族集団は275以上に分かれている。

公用語はフランス語と英語である。旧フランス領地域ではフランス語が、旧イギリス領地域では英語が話されていた。しかし英語・フランス語の2カ国語教育が進んだため、バイリンガルが非常に多く言語間の壁がほぼなくなっている。

ほかに土着言語としてファン語、フラニ語、イエンバ語、バサ語、カヌリ語、バムン語、ドゥアラ語、アゲム語などが話されている。
ガボン州
住民は、北西部のファン人が28.6%で最も多く、その他に南部のプヌ人(10.2%)、ンゼビ人(8.9%)、エシラ人、オバンバ人、ドゥマ人などのバントゥー系民族が多数を占め、北東にバカ人が存在する。フランス人は1万人ほどであるが強い影響力を保っている。

言語はフランス語と英語が公用語である。旧フランス領のためフランス語が話されるが、学校教育として、英語も第二外国語として受ける。そのため英仏語バイリンガルが非常に多い。その他にファン語などのバントゥー語群の言語、アダマワ=ウバンギ語派のバカ語が使われる。
コンゴ州
コンゴ州の住民の内、コンゴ人が48%、サンガ人が20%、ムボチ人が12%、テケ人が17%となり、ヨーロッパ人やその他(ピグミーは2%)が3%となる。

公用語はフランス語と英語であり、前述したとおり英仏語2カ国語教育がなされている。その他土着言語としてコンゴ語やリンガラ語、ムヌクツバ語などが話され、その他にも地方諸語が存在する。
ウパンギ・シャリ州
ウパンギ・シャリ州の地域は古くから非常に人口密度が低い。人口は1962年に125万人、1988年には253万人、1994年には318万人、2017年には466万人と急増を続けているが、それでも州全体の人口密度の低さは変わらず、なかでも東部は飛び抜けて人口密度が低い。

住民は、アダマワ・ウバンギ系言語を話す民族が中心である。主な民族は、バイヤ族(33%)、バンダ族 (27%)、マンディア族 (13%)、サラ族(10%)、ムブーム族 (7%)、ムバカ族 (4%)、ヤコマ族 (4%)、その他 (2%) である。

公用語はフランス語と英語であり、前述したとおり英仏語2カ国語教育がなされている。その他土着言語のアダマワ・ウバンギ系言語や、それがフランス語として混淆して形成されたサンゴ語というクレオール言語も話されている。

チャド州
住民はスーダン系の黒人が大半を占めており、200近い民族に分かれている。チャド州の民族は、宗教によって北部・中部のムスリム(イスラム教徒)系の民族と、南部のキリスト教徒やアニミスト中心の民族に大きく分けられる。

最大民族は南部の農耕民であるサラ人であり、人口の27.7%を占める。南部の民族には他にムンダン人などが属し、州人口の半分弱を占めている。北部系の民族で最も大きなものは主に中部に住む牧畜民であるバッガーラ人などのアラブ系民族であり、人口の12.3%を占める。このほか北部の民族としては、サハラ砂漠に住む遊牧民のトゥーブゥー人(ダザ人やテダ人が属する)や、東部に主に居住するザガワ人、そのほかハウサ人やフルベ人、カネンブ人、マバ人などが存在する。

公用語はフランス語と英語であり、前述したとおり英仏語2カ国語教育がなされている。またアラビア語も話されている。その他の言語として南部のサラ諸語に属するンガムバイ語や、別系統のムンダン語、北部のトゥーブゥー語に属するテダ語やダザガ語、チャド湖周辺のカヌリ語や中部のアラビア語チャド方言、カネンブ語、マバ語など120以上の言葉が使われている。

宗教

宗教は、伝統的宗教が19%、プロテスタントが30%、ローマ・カトリックが25%、イスラム教が15%、その他が11%である。宗教対立はほとんど存在しない。

教育

アフリカ中部連合の教育は宗主国であったフランスの影響を多大に受けている。2歳から5歳までの就学前教育ののち、6歳から16歳までの10年間が無償の初等教育と前期中等教育期間となり、6歳から11歳までの5年間が小学校、その後4年間が中学校となる。前期中等教育の後3年間の高等学校による後期中等教育を経て大学等の高等教育への道が開ける。2003年の推計によると、15歳以上の国民の識字率は96%である。コミュニケーションを重視した国語教育が、小学校での最重要の教育目標になってもいる。また学費は全て無料である。また小中高と英語とフランス語の2カ国語教育が行われる。また希望者はアラビア語やドイツ語、ロシア語を代わりに選択することもできる。

高等学校卒業時に行われるバカロレアに合格すれば任意の総合大学・単科大学へ入学できる。ただし、グランゼコールを含む一部のエリート大学はこの限りでない。代表的な高等教育機関としてはヤウンデ大学、リーブルヴィル大学、ンジャメナ大学、ポアントノアール大学、ブラザビル・コンゴ大学、ドゥアラ大学、バンギ大学、カメルーン工科大学などが挙げられる。

文化

観光

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