架空国家を作ろう 第2.6世界線 - レヴァン・マルサウリ
レヴァン・マルサウリ
ლევან მარსაური
写真
生年月日1957年XX月XX日 (2024歳)
政党労働者党
学歴王立工科大学(修士)
前職物流業
国会議員
当選回数10回
在任期間1990-
首相
回数2回
在任期間2004-2008
2016-2020
交通大臣
回数2回
在任期間1995~1999, 2003~2004
土木大臣
回数1回
在任期間1999~2003
物流大臣
回数2回
在任期間2004~2008, 2016~2020

来歴

1957年、ラチャ州アンブロラウリに生まれる。トビリシの王立工科大学に出て学んだのち、同大学院に進学、建設・運輸を学ぶ。1981年に工学修士。その後、技術職として物流業に携わる。しかし、業界内での労働環境に疑問を抱いたことから、物流業の労働条件改善と、産業構造の改革による効率化を訴え、1988年に労働者党に参加する。折しも労働運動が盛り上がりを見せた時代であり、1990年の王国議会選挙では労働者党大勝の流れに乗って初当選を果たす。その後、党外務委員を経て、外務委員長ラシャ・アヴラゼの抜擢により外務副委員長に就任、1995年には交通大臣として初入閣を果たす。のち土木大臣を経て2003年に交通大臣に再任、しかし同年、ルカ・タイシ首相が暗殺される事件が発生。ナンバー2であるグルゲン・スペレヴィアン内務大臣も負傷し、またナンバー3のダヴィト・クラスノシヴィリ司法大臣は高齢を理由に固辞し、さらにナンバー4以下3名は他党からの入閣であったことから、ナンバー7でありながら暫定首相の大任を引き受ける。その後、労働者党の代表選挙の結果としてイオナ・イオナヴァとともに党の共同代表に選出される。これをもって2004年に第一次マルサウリ内閣を組閣。「国土改造」をモットーに掲げ、運輸・建設分野に重点を置いた行政改革を行った。自身も物流大臣を兼任した。しかし、閣僚の多くが自身がかつて属していた外務委員会の出身であることから党内バランスを崩すものとして党主流派から批判を受け、また王党派に対しても比較的穏健な姿勢をとったことや連合のイオナヴァ内閣との関係を強めたことでジョージアの労働者党内部では孤立する。またもと技術者で執務能力は高いものの演説は苦手であったことから、大衆人気も弱かった。しかし、物流分野への知見を活かした交通制度改革が成功し、民生の改善に資したこともあり、政権後半は安定した政権運営を続けた。2008年の総選挙を前に急病に倒れ、自身の信頼を置く側近であるステパネ・ツワシヴィリ電気大臣に後を託し公務から一時退く。しかし、党主流派がツワシヴィリの首相就任に反発し多数派工作を展開した結果、同年の代表選挙でツワシヴィリはイリア・イノクヴァ文化大臣に敗れ代表・首相への就任を逃した。以後は自派と対立する党主流派が党内の実権を握る情勢が続いた。国会議員の職務は継続しつつも大臣のポストからは離れていたが、体調回復後は再び政権への意欲を表すようになり、2016年の党代表選挙では自派をまとめ上げ、マルハズ・カルガリア財務大臣との一騎打ちを制し再び党代表に再任、同時に首相にも再任する。労働者党政権成立後、元首相が再び首相に就任するのはマルサウリが初であった。労働者党内部の混乱による政情不安からの回復を目指し、民生向上を掲げた第二次内閣では、運輸・建設分野を中心に産業に関する法制度の整備を行い、安定した経済活動を保証した。しかし、労働者党内部の混乱が強まり、また国民人気の高いギオルギ・アダナシヴィリ元首相を中心とした平等党が結党され支持を強めたことで、2020年の総選挙では敗北、労働者党は1990年以来はじめて政権与党の座から転落するという大敗を喫する。この責任をとって党代表を辞任、後任の代表として選出された側近のツワシヴィリに党勢再建を託し、自身はその後援に回った。

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