架空国家を作ろう 第2.6世界線 - リーベリグループ
社名リーベリグループ
売上5兆3250億円
事業内容旅客機、貨物機、軍用機、小型艦艇製造
CEOタプローバ・カントール

概要

アルミヤ連邦共和国、唯一の航空機製造メーカーである。
民間企業であり、主な顧客はアルミヤ航空?アルマトゥイ航空?カランドグループアルミヤ連邦共和国空軍
旧政府時代から存在しており、旅客機の開発・生産を行っていた。また、小型の地面効果翼機の設計・生産を行い、カスピ海での試験を行っていた。

歴史

1925年、欧州で航空工学を学んだカロレッタ・カントールはカザフ=ウズベク連邦に帰国し、大学の友人と共にリーベリ社を立ち上げた。初期のリーベリ社は機体のみを設計する小さな会社であり、エンジンは設計していなかった。エンジンの設計を行うようになるのは1929年からであるが、それも簡単なもので、本格的な設計を行ったのはエンジンのライセンス生産を行ったあとの1952年頃であった。

1930年頃から他国のレシプロ戦闘機のライセンス生産や改良などを行い、ノウハウを蓄積していた。1938年、リーベリグループはBf 109などを参考としたレシプロ戦闘機の設計を行い、数機を生産した。この機体は引き込み脚や全金属製の機体などを採用し性能は高かったものの、量産するには当時のカザフ=ウズベク連邦の工業力が足りなかったことや、他の戦闘機のライセンス生産が既に行われている状況で量産する理由がないことなどもあり、生産された機が配備されたのみに留まった。

1942年、リーベリ社は輸送機の開発を行った。これは当時の最新鋭機と比べると最低限程度の性能しかなく、試作機のみで量産は行われなかった。その後も改良が進められ、空力的な改善やエンジンの強化により1950年頃には初期型のC-47に迫る性能を持っていた。これは1951年に限定的な生産が行われ、旅客機として運用されることとなった。

1955年、リーベリグループは国内の航空輸送網を整えたい政府の動きを察知し、世界の航空機産業へ参入するための計画を政府へ提案した。これは2000年までに世界の市場に参入できるだけの性能を備えた旅客機を生産することを目標する計画で、実用に足るだけの性能を持つ旅客機を生産出来るようになるまで8割ほどの費用を負担するという内容であった。政府はその膨大な数字に不満を示したが、元々国内産業の発展を求めていたことや、戦闘機や輸送機の実績を持つリーベリ社ならばある程度の期待は出来ると考え、この提案を受け入れた。

一機目の試作機は1965年に完成した。この試作機はMiG-15のライセンス生産で得たジェットエンジンのノウハウを活かして設計されたもので、技術的にも未熟であるため計画内では実験機以上の意味は無いと判断されていた。
設計者の予想通り、一機目の試作機の性能は非常に悪いものとなった。これはそもそもジェットエンジンのノウハウが極端に不足しており、エンジン自体の性能が悪かったことが最も大きな要因である。
この機は亜音速域での空力性能の改善データなどの収集を行った後、アルミヤ航空博物館?へと送られている。

二機目の試作機を作るにあたり、設計者集団は他国の旅客機に搭乗して情報収集を行ったり、先進国の大学や企業からの技術者のスカウトを積極的に行った。
これらの行動は目に見えるほどの結果をもたらし、1972年に完成した二機目の試作機は一機目の試作機とは比べ物にならないほどの性能を示した。それを見た政府はこれを少数生産し、国内主要都市間を繋ぐ為に運行することをリーベリグループに要請した。リーベリグループも運用データを取るためにこれを承諾し、5機程度の生産を行いながら3機目の試作機の設計を開始した。
しかし、一機目と比べて驚異的な性能を示したと言っても、先進国の最新機と比べた時に見劣りする性能であることは間違いなかった。

そんな中、1978年に三機目の試作機が完成した。最大の変更点は開発チームがB747が搭載したターボファンエンジンの特性に注目し、高バイパス比ターボファンエンジンを搭載したことである。初めてのターボファンエンジンの設計は元々レシプロ機のプロペラの設計などを行っていたことが功を制し、予想外の成功を収めた。
リーベリグループはこの性能であれば政府は量産を指示するだろうと考え、二機目の運用データと試作機のデータを踏まえながら細部の設計変更を開始した。この予想は当たり、政府は1982年までに20機を量産することを命じ、予算の追加を行った。
リーベリグループは3ヶ月以内に追加予算を使用して全長50m、全幅50m、全高15mまで対応可能な製造工場を建設し、四機目の試作機の設計を行いながら生産を行うため、更なる人員の拡充を行った。この拡充された人員の一部は地面効果翼機の研究に回されている。

四機目の試作機は1983年に完成した。この時点で既にボーイングやエアバスの最新鋭機に肉薄するほどの性能を示していたが、リーベリグループは二社の開発ペースから、数年後にはナローボディ機に最新鋭機が登場すると予想していた。そのため、更なる最新技術を導入した最新鋭機の開発を進めることを決定し、四機目の試作機はデータの収集を完了させた後、博物館へと寄贈を行った。

こうして初の商業機が1987年に初飛行を行った。この機は細部の改良を施した後、89年よりL-180として生産を開始した。L-180の性能は高く、国内の多数の航路で使用されるようになり、更には国外でも複数の航空会社に採用され、リーベリ社初の商用旅客機として成功を納めた。

そして1993年、リーベリ社はエンジン設計部門をリーベリ・エンジンズとして、戦闘機関連部門をリーベリ・ミリタリー・エア・クラフトとして、大型機開発部門をリーベリ・エア・クラフトとして分離させ、リーベリグループを設立した。それと同時に大型旅客機計画を立案し、これはL-300として開発が開始された。

1995年、メディコスのクーデターにより政権が変わったものの、リーベリ・グループに対する出資は継続して行われることが決定した。
また、リーベリグループは1996年春にアルミヤ連邦共和国空軍より複数の開発を依頼されることとなる。これらはアルミヤ連邦共和国空軍近代化計画?に記されている。

2002年にL-300は完成し、国内の複数の航空会社の国際線で運用され始めた。性能は好評であり、2015年の時点で受注は200機を超えることとなった。リーベリグループは2000年までに、世界と勝負することが出来るだけの製品を作ることに成功したのである。

その後についてはL-180L-300LF-8LF-10などを参照。