架空国家を作ろう 第2.6世界線 - モスクワ内戦
モスクワ内戦
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時:1791~1793
場所:ポーランド・リトアニア・モスクワ帝国モスクワ
結果:ポーランド・リトアニア・モスクワ帝国の勝利
交戦勢力
ポーランド・リトアニア・モスクワ帝国モスクワ共和国
指揮官
スタニスワフ2世イワン・コロリョフ
兵数
130,000人150,000人
損害
58,000人83,000人



背景

1700年代後半、当時のポーランド・リトアニア・モスクワ共和国はセイムによる全会一致制を採用していたが、大貴族の利害が複雑に絡み合い、何も決められない状態に陥り、国としての力は衰弱しきっていた。
この状況を危惧した国王のスタニスワフ2世は改革派の貴族と結託し、保守派の貴族に日程を知らせずにセイムを開催。セイムで5月3日憲法を全会一致で採択、施行した。
保守派の貴族は、自分たちの権利が侵害・剥奪されたとして、モスクワを中心としてポーランド・リトアニア・モスクワ共和国に対して反旗を翻した。

経過

序盤、経済基盤のある大貴族が保守派に多かったので、統率の取れたモスクワ共和国軍にポーランド・リトアニア・モスクワ帝国軍は敗戦を重ねた。
転機が訪れたのは、1792年3月のヴィスワ川の戦いである。
撤退を続けていたポーランド・リトアニア・モスクワ帝国軍はヴィスワ川沿いに防御布陣を引いた。
モスクワ共和国軍はこの防御布陣を突破できず、1ヶ月近くヴィスワ川でのにらみ合いが続いた。
1792年4月、ポーランド・リトアニア・モスクワ帝国軍は一斉に反撃に転じると、もともと大貴族同士の連合軍であったモスクワ共和国軍は内部での対立により指揮統制が崩壊。
ポーランド・リトアニア・モスクワ帝国軍はの反撃を許し、後退し始めた。
1793年3月、ポーランド・リトアニア・モスクワ帝国軍はついにモスクワまでたどり着く。
モスクワ共和国軍はモスクワに立てこもり、必死の抵抗を見せるが、同年4月、ついにポーランド・リトアニア・モスクワ帝国軍にモスクワを奪われ、大貴族も逃亡に失敗し、ここでモスクワ共和国は消滅した。

影響

この戦争中、フランスで革命が起きていたため、外国の軍事的な介入は避けられた。
この戦争の勝利によって、スタニスワフ2世はカリスマを認められ、国内の統一が推し進められた。