ポーランド・リトアニア・モスクワ帝国は、第二次世界大戦による教訓から、さらなる技術水準の向上、及び核戦略の確立を目指してきた。
1945年にアメリゴが広島に核兵器を投下して以降、ポーランド・リトアニア・モスクワ帝国は核の脅威におびえてきた。
あの破壊が我が国に向いたらどうなるのか、それを想像したものは対抗策を練る。そして気づく。
「我々もその兵器を手に入れればいいではないか」
1948年、ポーランド・リトアニア・モスクワ帝国は、ノヴァヤゼムリャにて核実験を実施。世界で2番目の核保有国となった。
その後、近隣各国が次々と核武装していく様を見たポーランド・リトアニア・モスクワ帝国は、さらなる核武装の充実を進めていく。
さらなる爆撃機のステルス性向上・高速化、小型核の開発、弾道ミサイルの核兵器搭載。
近隣諸国の脅威から守るはずだったものは、逆に他国をおびえさせ、終わることのない核軍拡を生み出していく。
そして、1952年、スタニスワフ・ウラムなどの協力により、水素爆弾の製造に成功する。
それからも核兵器の開発は進み、1961年にノヴァヤゼムリャ核実験場にて50Mt
*1の威力を持つ「ツァーリ・ボンバ」の使用に至った。