架空国家を作ろう 第2.6世界線 - ベサリオン・レネヒ
ベサリオン・レネヒ
ბესარიონ ლენეხი
写真
生年月日1944年XX月XX日 (2024歳)
政党労働者党
学歴王立大学(学士)
前職活動家
国会議員
当選回数10回
在任期間1980-2016
内務大臣
回数1回
在任期間2004-2008
警察大臣
回数2回
在任期間2008-2016
首相
回数1回
在任期間2012-2016

来歴

カルトリ州ルスタヴィに生まれる。1956年の労働者党への大弾圧の際、周辺の知人も逮捕・拘禁されたことで衝撃をうけ、政治活動への志を持つ。苦学してトビリシの王立大学へ進学し、政治学を学ぶ。大学卒業後の1967年の労働者党に入党し、内務委員として活動。1971年、1975年の王国議会選挙に出馬するがいずれも落選。1980年、労働運動の盛り上がりの中で初当選。以後国会議員を務める。以後、長年に亘り内務委員として内務委員長であったダヴィト・ルガシヴィリを支える。また労働者党政権発足後は内務省において警察行政に携わる。2003年、ルガシヴィリの政界引退に伴いグルゲン・スペレヴィアンが輜重委員長から内務委員長へ移ると、内務委員としてもっとも経験豊富であったレネヒが副委員長に昇格する。同年、スペレヴィアンがルカ・タイシ首相の暗殺に巻き込まれ負傷し公務に障害をきたしたため急遽内務委員長に就任、2004年には内務大臣として初入閣する。のち、スペレヴィアンとルガシヴィリら元々の内務委員の対立が顕在化する中で、イリア・イノクヴァ首相の仲裁により、内務委員長格として復帰したスペレヴィアンに内務大臣を譲り、自身は内務委員長を続けながら新設された警察大臣のポストに就任する。このころから大御所であるルガシヴィリにかわって党主流派勢力の中核としての活躍を強める。2012年の代表選挙ではイノクヴァの退任もあり党主流派をまとめあげ出馬。当時、非主流派の主要人物としてはレヴァン・マルサウリ元首相の派閥の中心であったステパネ・ツワシヴィリ電気大臣と、内務委員会と敵対していたスペレヴィアンの2人がいた。スペレヴィアン政権の成立を何としても抑えるためレネヒはツワシヴィリに立候補を取り止めさせ、スペレヴィアン支持勢力の孤立化を図った。スペレヴィアンとの一騎打ちの結果、レネヒが勝利を収め代表へ就任、これにより党主流派の権力は保たれたが、スペレヴィアンやステパネ・アルカシヴィリら反主流派がレネヒ政権への反発から離党し、党の分裂を招いた。ジョージア首相に就任したレネヒはまた党内改革派である連合のイオナ・イオナヴァ首相とも対立しジョージアの主張を強く打ち出した。こうしたレネヒの行動は党内政治を反映したものであり独善的な利権政治ではなかったが、結果的に国内の混乱を招いた。一方で警察大臣としては能力を発揮し、悪質な行為の諸類型について犯罪化を推し進めそれに対する対処方針として警察の連携や技術革新に取り組むなど国内治安の維持に貢献した。また、主要政策をめぐっては他の派閥と対立したものの、労働者など民生の安定には従来の政権同様積極的に取り組み、国民の生活や安全は保たれた。2016年、ジョージア首相の任期満了を機に、高齢を理由として政界を引退。

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エピソード

20代から政治活動に身を置き、36歳で国会議員に当選しながら、出世はきわめて遅く、初入閣の時にはすでに60歳であった。しかしながらその後の国政の流れに乗り、ジョージア首相にまで上り詰めた。首相就任が68歳の時であり、すでに政治家としての晩年に差し掛かっていたこともあり、1期4年の任期を満了したのち政界を引退した。

名言

なんかすっんごい♡の(は?)