1490年頃のプラハ
1900年頃のプラハ国民劇場
6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ川河畔に集落が形成された。9世紀後半にはプラハ城、10世紀頃にヴィシェフラト城が建てられ、両城に挟まれたこの地に街が発達した。973年にキリスト教の司教座が置かれると、ユダヤ人の入植が始まった。しかし、プラハは度重なる戦渦に巻き込まれ、荒廃してしまう。
1346年にボヘミア王カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展。「黄金のプラハ」と形容されるほどだった。
ヴルタヴァ川に架かるカレル橋とプラハ城
次代国王ヴァーツラフ4世の治世、ヤン・フスによるローマ教皇庁への抗議が行われ、1415年にフスが火刑にされると、フス派によってフス戦争が勃発、ローマ教皇の十字軍を破るが、15世紀後半にハプスブルク家のアルブレヒト2世がボヘミア王になると、フス派はその支配下に入った。16世紀後半、ルドルフ2世の治世になると、芸術や科学を愛する王の下、プラハに芸術家、錬金術師、占星術師などが集められ、プラハはヨーロッパの文化の中心都市として栄華を極めた。しかし、1618年にプラハ城で起きたプラハ窓外投擲事件を皮切りにビーラー・ホラ(白山)の戦いが勃発し、三十年戦争に発展。1648年、カトリックの最後の牙城だったプラハはスウェーデン軍に包囲されるが、ヴェストファーレン条約が締結され、戦争は終結した。しかし、王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減する。また、チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧や文化弾圧などを受け、チェコは独自の文化を失い、2世紀以上にわたって「暗黒の時代」といわれるチェコ民族文化の空白時代を迎えることとなる。
聖ニコラスの教会
一方で、1784年に4つの市議会に分かれていたプラハは、1つの市議会に統合された。その4区とは「フラッチャニ(城の丘)」(城塞・城塞の北部、および西部地区)、「マラー・ストラナ(小地区)」(下町、城塞の南部地区)、「スタレー・ムニェスト(旧市街)」(城塞の対岸・東側)、「ノヴェー・ムニェスト(新市街)」(その他の南方および東方地区)である。1848年に五区としてユダヤ人街(かつてのゲットー)が編入され、皇帝ヨーゼフ二世にちなんで「ヨゼフォフ」と名づけられた。20世紀初め、スラム化が一層進んだために大規模に再開発された。ユダヤ人墓地、シナゴーク、ユダヤ集会所などがある。 さらに町は1883年に「ヴィシェフラト(「高い城」地区)」を、1850年に有名なユダヤ教徒コミュニティーの「ヨゼフォフ」の併合をし、更なる拡大をする。
カレル橋
18世紀末、フランス革命やドイツ・ロマン主義に影響を受けた知識人らによって再び民族独立の動きが強まる。1848年にはプラハ市民によるオーストリアに対する蜂起がおこるが失敗した。第一次世界大戦終結後の1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、チェコスロヴァキア共和国が成立すると、プラハ城に大統領府が置かれ、首都となった。1922年初頭に、37の自治体を合併し、人口は676,000人となった。
しかし1938年に、アドルフ・ヒトラー率いる
ナチス・ドイツ軍によって占領され、チェコスロヴァキアは解体されてしまった。第二次世界大戦中はここに居住していたユダヤ人約5万人がドイツ人によって殺害された。しかし、プラハは他の東欧中欧の都市のような大規模な戦火に曝されることはなかった。ただし一部で被害は被った。
第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となった。1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こるが、共産党保守派のクーデターを受け失敗、改革派は弾圧された。しかし、1989年のビロード革命により共産党政権は崩壊した。
プラハは、1000年以上の歴史を持つ都市であり、第一次・第二次世界大戦の被害にも、また、その後の資本主義の高度経済成長にも巻き込まれなかったことで、ロマネスク建築から近代建築まで各時代の建築様式が並ぶ「ヨーロッパの建築博物館の街」になり、ユネスコの世界遺産にも登録されている。