架空国家を作ろう 第2.6世界線 - フォンセーズ自由国

国家情報

国名フォンセーズ自由国連合
公用語フランス語
国歌Nous nous appelons surrender monkey (我らサレンダーモンキー)
国の標語Je capitule!
首都Paris、パリ、巴里
国家元首シャブル=ド=シコール
政治体制共和制
人口約1億1000万人
GDP2兆0377億EUF+???CFAフラン
通貨EUF

概要

フォンセーズ自由国(a.k.a フランス第7共和制)はフランス(第五共和政)の後継国家。
西ヨーロッパのフランス第7共和政、西アフリカのセネガンビア共和国連邦、東南アジアのインドシナ社会主義共和国、及びフランス海外領土(西サハラ)からなる偉大な連合国家である。
本土は地中海及び大西洋に面し、海外領土は西アフリカ、大西洋岸に位置する。

歴史(西欧フランス)

ローマ帝国時代
紀元前の頃、現在の偉大なる輝かしいフランス本土は地中海沿岸のマッサリア等一部の都市がギリシアの植民市であった、それを除く大部分にケルト人が生活しており、古代ローマ時代はゴールと呼ばれていた。ゴールに住むケルト人達は、彼ら独自の文化体系を持っていたものの政治的に統一された集団ではなく国家は成立していなかった。B.C.200年頃のポエニ戦争でカルタゴが滅亡しローマが名実共に地中海西部で最大の勢力となった頃、ゴール南部(現在のプロヴァンス地方周辺)がローマの支配下に置かれ属州となった。B.C.58年、かの有名なローマの将軍カエサルがゴール北部に侵攻しガリア戦争が勃発。ゴールの諸部族は連合してローマと対峙したが抵抗むなしく敗北し、ゴールは占領された。ガリアはいくつかのローマの属州として分割され、ラティフンディア(奴隷制プランテーションの様なもの)が建設された。その後パクス=ロマーナ下でケルト人のラテン化が進行した。
5世紀を迎えた頃、ゲルマン系の勢力が東方から侵入しゴールにいくつかの王国を成立させた。
フランク王国時代
476年、西ローマ帝国が滅亡し、クローヴィスのメロヴィング朝が台頭した。508年、メロヴィング朝はパリに遷都しフランク族はメロヴィング朝の下でラテン文化とキリスト教を受け入れた。732年のトゥール=ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝を打ち破ったフランク王国の宮宰カール=マルテルの子である小ピピンは751年にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を立てた。小ピピンの子、カール大帝(シャルルマーニュ)はイスラーム勢力やヨーロッパの遊牧民アヴァール人を相手取りイベリア半島北部、イタリア半島の北部、パンノニア平原に至るまでその版図を拡大し、ヨーロッパのほとんどの地域を平定した。カール大帝の下でヨーロッパは繁栄し、カロリング=ルネサンスが興ったのは特筆すべき実績といえる。
カール大帝の没後、フランク王国は3つに分裂した。これら分裂した国は後のドイツ、フランス、イタリアの礎となったと言われている。また、この時期に古フランス語が形成され始めた。
カペー朝フランス王国
987年、分裂した3つのフランク王国のうちフランスにあたる西フランク王国が断絶したため、パリ伯ユーグ=カペーがフランス王に選出されフランス王国が成立した。1209年にはローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけによりアルビジョワ十字軍が開始されルイ8世が参加、フランス南部のカタリ派及びその地域の諸侯を滅ぼし王朝は南部への影響力を伸長させた。1285年に即位したフィリップ4世はその前年にナバラ王国の王(フェリペ1世)としても即位しており、フランドル地方の支配やアナーニ事件、教皇のバビロン捕囚、テンプル騎士団の解散など多くの改革に乗り出し次々と財源を確保していった。1337年、イングランド(プランタジネット朝)との間に百年戦争が勃発し、大陸からイングランド勢力を追放した。
絶対王政の時代
15世紀末、シャルル8世の時代には使節団の交渉によってオスマン帝国からカピチュレーションを取り付けた。
1534年、フランス人探検家のジャック=カルティエがガスペ半島(ケベック)に十字架を立てヌーベルフランス(所謂フランス領北米)を宣言した。
1560年頃、スペインのフェリペ2世がフランス王アンリ2世の娘と結婚した。これによりフランスはスペインによる内政干渉を受けカトリック的政策を
推進したため摩擦が高まり、ユグノー(新教徒)戦争が勃発した。1596年にはフランスはイギリス、オランダと同盟を組みその2年後にはナントの勅令(新教徒に対しての信仰の自由)によってユグノー戦争を終結させた。1629年にリシュリューがユグノーと和解したため、英仏戦争についても講和が実現した。1635年にはフランスが三十年戦争にユグノー側として参戦した。
1643年に即位したルイ14世 a.k.a.太陽王はナバラ王国のルイス3世としても即位しスペインの制海権と金融を事実上受け継いだ。また彼は1685年にナントの勅令を廃止した(フォンテーヌブローの勅令)。その後フランスは1701年のスペイン継承戦争をきっかけにイタリアに対する債権国となる。
1715年にはルイ15世 a.k.a.最愛王が即位したが、1756年からの七年戦争でフランスの孤立は決定的となった。
革命と共和政、帝政
1774年に即位したルイ16世は先代達のツケを払う羽目になった。財務総監ネッケルがおぞましいことになっていた財政支出状態を暴露し辞任したのだ。それにより革命が勃発しルイ16世とかのマリーアントワネットが処刑される結末を迎えた。またフランス革命に前後してハイチでもトゥサン=ルヴェルチュールによって革命が起こされた。革命によって成立したロベスピエールを筆頭とするジャコバン派の政府は恐怖政治を行い多くの反対派を処刑したために民衆の支持を失いテルミドール9日のクーデターによって失脚させられフランス革命はひと段落する事となる。
革命後は総裁政府と統領政府を経て帝政へと進んでいった。第一帝政を開いたナポレオンは強力な常備軍を用い拡張政策を推進した。がヨーロッパは対フランスで団結しナポレオンはついにワーテルローの戦いで敗れ、王政が復活した。王政は当初肯定的に受け止められたものの王が専制君主を志すわ色々としょぼいわで19世紀の前半にはさっさと革命が勃発し二月革命でぶっ倒れ第二共和政が成立した。
しかしその僅か3年後にはナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)によってクーデターを起こされ帝政へ移行する。彼は積極的に拡張政策を推し進め世界各国に出兵(中国、インドシナ、日本、メキシコなど)し、スエズ運河を開通させたりもした。が1870年、プロイセンとの戦争で へ な ち ょ こ さを露呈し退位した。
動乱の時代
へなちょこ皇帝が情けなく退位した矢先に、パリではプロイセンとの講和に反対するイカれた共産主義者達がパリ=コミューンを設立。これは世界初のプロレタリアート独裁を標榜する愉快な仲間たちだったがヴェルサイユの政府軍との凄惨な市街戦によって崩壊し、パリは血の海と化してしまった。その後これを鎮圧した臨時政府の首班であるティエールが第三共和政を打ち立てた。1887年には清仏戦争とトンキン戦争に勝利し仏領インドシナを成立させた。普仏戦争の直後から対独感情はドブに沈んだように悪かったが1913年にアルザス・ロレーヌ(当時はドイツ領)の住民が帝国軍人から迫害を受けた事件が起き、フランス民衆の反独感情はピークに達していた。クラウツのクソが代。
その次の年、つまるところ1914年にはアレが勃発した。そうだよアレだよWW1。辛くも勝利を収めたが東部フランスはボロ雑巾のようにズタズタにされ土壌は汚染されるわ労働者人口が無茶苦茶減るわでロクな目にあわなかった。何せ未来ある若人が150万人ほど犠牲となってしまったのだ。この頃に西アフリカ植民地のセネガルが独立を宣言した。当時のフランスには大規模な軍隊をもつセネガル独立派を鎮圧する余力もなかったのだ。あと腹いせにルール地方を占領した。
WW1の終結後はなんだかんだ国の復興を進め、20年の平和を謳歌していたが1940年に落ちこぼれの画家ヒトラー率いるクソバカナチカス共の電撃戦に破れ第三共和政は崩壊、ペタンを元首とするヴィシー・フランスが成立し連合国側には著名なラジオDJであるド・ゴール率いる亡命政府たる自由フランスが成立した。自由フランスは徐々に領土を奪還していき1944年には臨時政府がフランスに帰還し、ドイツから国を取り戻した。
WW2終戦後に第三共和政の流れを汲む第四共和政が成立、再スタートを切ることとなった。
新たな世界秩序
こいつ早速インドシナやアフリカの植民地を失ってるんだワ。時代の流れに逆らった結果なンだワ。そうこうしてるうちに米ソ対立は激化し冷戦に突入した、フランスは西側に属しては居たが米英とは一定の距離をおいた政治姿勢を打ち出し、独自に核兵器の保有も行った。その後長らくは安定した政府運営が行われ欧州の主要国として成長を遂げていった。
WTF????!?!!!!????
長らく平和を謳歌していた我が国だが2015年に転機が訪れてしまった。パリで大規模なテロが勃発し100名を超える無実の市民が犠牲となった、それとほぼ時を同じくしてパリのイスラーム系移民や低所得層市民が武装蜂起し瞬く間にパリ中心部を掌握し第6共和政フランスを成立させると宣言した(政府の中心人物や閣僚はほとんどが脱出に成功した)。軍隊は長らく続いた対テロ戦争によりほとんどの戦力が海外へ展開しており、国家憲兵や警察の武力ではこの大規模な蜂起を鎮圧することは出来なかった。低所得層の中心人物達はパリ・コミューンの再興を構想していたがイスラーム過激派の謀略により多くが粛清され代わりにイスラム原理主義国家の樹立を目指した。しかしパリ市内で非ムスリムに対する弾圧が始まろうとした頃に、民衆への流れ弾を懸念していた陸軍が支配区域への侵攻を開始し瞬時に秩序を取り戻した。政府軍によるパリの掌握には1日もかからなかったが重火器をも投入した軍と徹底抗戦を行った賊軍によって中心部は廃墟と化した。
政府首脳部はパリに帰還したが同じく現状に不満を持つ軍部によってクーデターが起き失脚、彼らの支援のもとで政権運営を水面下で準備していた極右政党が政権を握り第7共和政フランスを成立させた。この政府は領土の復古を推し進めフランスの強大な経済的及び軍事的な影響力のもとセネガンビアとベトナムを緩やかな国家連合として再併合した。

領土

20--年--月--日をもってセネガンビア共和国連邦及びベトナム共和国を併合し、同国はフォンセーズ自由国連合の構成国となった。

政治

フランス、セネガンビア、インドシナにそれぞれ議会が存在するのとは別に、フォンセーズ自由国連合全体での議会が存在し各地域から選抜された者が議員を務める。

行政

行政組織も議会と同じく連合全体の行政を握るものと各国の行政を担当する組織が並立している。

司法

連合全体での共通方針は存在するが法体系は3国バラバラとなっている。連合国民の犯罪は加盟国現地で裁かれる(フランス出身者がインドシナで犯罪を犯した場合インドシナで裁判を受ける)が例外規定も存在する。

資源

海は広いし作物も取れる。農作物の生産量は世界有数の規模。セネガンビア沖では油田、ガス田開発計画が進行している。インドシナは石油、鉱物が豊富である。

外交

国交樹立国

陣営

HATOに加盟して虎の威を借る外交を展開しているよ。

条約、同盟

軍事

3カ国の統合軍を各地に配備する方式をとっている。