架空国家を作ろう 第2.6世界線 - トマーシュ・マサリク
トマーシュ・ガリッグ・マサリク(1850年3月7日 - 1937年9月14日)は、チェコ=スロバキア連邦共和国の社会学者・哲学者・政治家で、チェコスロヴァキア共和国の初代大統領(在任:1918年 - 1935年)である。
トマーシュ・ガリッグ・マサリク
チェコスロバキア 初代大統領
任期1920年〜1935年12月14日
出生1850年3月7日【オーストリア帝国 ホドニーン】
死去1937年9月14日【チェコ=スロバキア連邦共和国 ラーニ】
配偶者シャーロット・ガリッグ

生涯

生い立ち

1850年、モラヴィアのホドニーンの労働者階級の家庭に生まれた。当時モラヴィアはオーストリア帝国のオーストリア領内にあり、現在はチェコ共和国の領土となっている。父親のヨーゼフ・マサリクはオーストリア帝国のハンガリー領出身のスロバキア人であった。母テレーゼ・マサリコヴァはモラヴィア出身である。

若い頃鍛冶屋として働いていた。ブルノ?、ウィーン、ライプツィヒで研究をして、ウィーン大学卒業。同大学院修了。 1882年にプラハ大学の哲学教授に任命された。翌年にマサリクはチェコ文化のための雑誌を出版、またオットー百科事典の編纂にも加わった。歴史についていくつかの作品を書いたが、この中で伝統的なチェコの神話学の詩を詐欺的とする論は、この詩を信じていた有力な人々から憎しみを買う原因となった。また、マサリクは起訴されたユダヤ人を保護し、人種的偏見に反対した。これによって人々からさらに憎しみを買った。

政治活動

マサリクは政治運動に参加し、オーストリア議会議員を1891年から1893年まで務めたが、1907年から1914年までオーストリア・ハンガリー帝国からの独立運動を行い、第一次世界大戦勃発時には国家反逆罪で逮捕されることを避けるために国外へ逃亡しなければならなくなった。

ジュネーヴ、イタリア、そしてイギリスへ行き、チェコの独立を世論に訴えた。小民族の問題について講義しながら、キングス・カレッジ・ロンドンでスラブ人研究所教授となった。1917年の2月革命の後に、オーストリアに対するスラブ人の抵抗運動を組織するためにロシアの支援を受けた。1918年10月18日にワシントンD.C.の国会議事堂に立ち、チェコスロバキアの独立を宣言した。

1918年、オーストリア・ハンガリー帝国は崩壊した。連合国はマサリクをチェコの代表者と認めた、そして1920年に初代チェコスロバキア大統領に選ばれ、以降2度の再選を果たした。1935年12月14日に健康の悪化を理由に辞職し、1937年に87歳で死亡した。