テクサスは1935年、ボーク・テクサスによって創設された。
ラッピー?の創設者フェローチェス・チェレリータスとボーク・テクサスは友人であり、テクサスは
ラッピー?と協力しながら陸軍向けのトラックの開発と販売を行っていた。
1960年より両社は今まで培ってきたノウハウを活かして合同でセダンの開発を行い、
イミチウム?を完成させた。これは1500cc程度のクラウンやスカイラインと同クラスの車で、65馬力という比較的高性能なエンジンと、先進的な懸架方式、サスペンションなどを採用し、国内の富裕層向け高級車としてヒットした。
テクサスはこの技術を元として
イミチウム?のスポーツセダンモデルを、ラッピーは純粋なスポーツカーを開発する方針を決めた。1200ccクラスのセダンは当初両社で開発する予定だったが、スポーツカーの開発が進むにつれて
ラッピー?のリソースが不足し、テクサスが単体で開発することになった。
テクサスが開発した
イミチウム?のスポーツセダンモデルは
イミチウム-S?として発売され、
イミチウム-S?のレーシングモデルは国内レース最高峰である1966年の
GRグランプリ?において優勝を飾った。
イミチウム-S?は1967年にも優勝を飾ったが、1968年には
ラッピー?が
イミチウム?の技術を使用して開発し、投入した
ウルフ?が優勝することとなった。テクサスは
イミチウム-S?の更なるパワーアップを決定し、ターボとエンジンの強化による20馬力の出力アップと、アルミニウムパーツの利用による徹底的な軽量化を施し、
エクセクア?と共に60年代最後の激戦へと飛び込んだ。
この69年の激戦は、レギュレーションが変更され
GRシリーズ?が開始された75年、
GR-1?の車両規定がグループCに変更され、その他様々な環境変化が発生した83年、ロータリーエンジンとレシプロエンジンの頂上決戦と言われた93年、
オシ・ラリー?にアルミヤレースチームが多数参加した14年の戦いと並び、伝説と称される一戦となった。レースは10周まで1位、2位、3位を
ウルフ?が確保し、4位、7位、8位を
イミチウム-S?が、5位、6位、9位を
エクセクア?の
アンジェルス?が確保している状態であった。この順位が大きく変動し始めたのは、8周目から降り始めた雨が路面をウェット状態にした11周目からであった。
イミチウム-S?が突如としてドリフトを多用し始め、
アルジェルス?を突き放しながらトップを独占する
ループス?に対して猛追を開始、13周に突入した時点で4位と5位が3位に肉薄し、激しいトップ層争いを開始したのである。2週に渡って行われたバトルは何回もの抜きあいを経て、
イミチウム-S?が1位、2位、6位、
ウルフ?が3位、4位、5位となった。
69年の激戦はアルミヤ国内にドリフト最速論を生み出したが、少なくともテクサスの開発チームはドリフトに頼ったレースを行うつもりはなかった。テクサス側は、ドリフトが生かせたのは路面がウェット状態だったからでしかなく、まともに勝負を挑めば現状では勝ち目が薄いと考えていたのである。
そこでテクサスは専用のスポーツカーを投入することを決定し、空力を改善するためにリーベリ社へボディの共同設計をもちかけた。リーベリ社はこれを引き受け、設計者を一時的に貸し出す提携を結んだ。期限は旅客機プロジェクト二機目の試作機の設計が開始されるまでの10ヶ月とされた。この時リーベリ社の技術者が提案したのは、徹底的なダウンフォースの確保と軽量化に加え、整流を行うことで燃費や旋回性能を向上させる仕組みであった。そうして開発されたのが
クラッス?である。
クラッス?は1971年から
GR-1?へ投入され、圧倒的な性能によって1位から4位を独占しながら圧勝した。1972年から新設された
GR-X?でも優勝を飾り、海外でのレースでも強豪チームを抑えて優勝するなど、規格外の強さを見せつけた。
ラッピー?が対抗して投入した
ファング?も当時他の有力メーカー製スポーツカーに迫る性能を持っていたが、加速性能や最高速度こそ若干勝っていたものの、コーナリング性能で圧倒的な差をつけられていた為に歯が立たず、
エクセクア?に対して王者の貫禄を見せつけることは出来たものの、評価は二番手以上にはならなかった。
クラッス?の圧倒的な性能に危機感を覚えたのは
エクセクア?もだった。2社は
クラッス?を潰すべく、共同で「DN計画」を立ち上げ対抗することを決定した。最終的にDN計画で完成した車両は
メーディア?と命名され、初投入された1974年の
GR-1?で2位、3位、5位、6位、8位、9位となった。連戦連勝を重ねていた
クラッス?に追いついた事で世間からの評価は急上昇したが、
エクセクア?と
ラッピー?はこの結果に満足しなかった。これは1975年から
GRグランプリ?が
GRシリーズ?へと変更されることで、レギュレーションも最高クラスがル・マンプロトタイプへ変更されることが決定しており、テクサスはそれに合わせて新型車を投入してくるだろうと予想していた。そして、
ラッピー?らはそれに対抗するにはもう一歩先を行く車が必要であると考えていたためであった。
その予想通り、テクサスはリーベリ社に再度協力を要請し、新型車の開発を開始していた。面白いことに、テクサス陣営も
ラッピー?陣営も、次に目を付けたのはグラウンド・エフェクト(「断面積が狭ければ流体の速度は上がる」という連続の方程式と、「流体の速度が上がれば圧力は下がる」というベルヌーイの定理を利用したもの。ボディ両脇のサイドポンツーンの下面を、前部が地面に近く後方に向かうに従ってスロープ状に跳ね上がるベンチュリ管形状に整形することで、走行中にサイドポンツーンの下に流れ込んだ気流が狭い空間で加速して地面との間に強い負圧が発生させる仕組みと、跳ね上げ部分で圧力が徐々に高まり、気流を後方に押し出して前部の負圧発生を助長させ、負圧により車体が地面方向へ吸い寄せられる仕組みを利用したダウンフォース発生機構である)だった。
最終的にテクサスは
キング?を発表、投入し、
ラッピー?もそれに合わせて
カヴァス?を投入した。最終的に
キング?と
カヴァス?は耐久レースとしては珍しいバトルをトップ争いで繰り広げ、
キング?は24時間で4,852.750kmを、
カヴァス?は24時間で4,853.430kmを走りきり、1位
カヴァス?、2位
キング?で幕を閉じた。
一位を奪還されたテクサスは危機感を強め、さらに空力改善用のパーツを設計し、車体自体も細かな設計変更を行った15種類の試作模型を他国の風洞実験施設へ持ち込み、半年間に渡って調節を行いながら、25馬力向上させた改良車を投入した。それに対し、連合チームはトルクを向上させるなどして80馬力上昇させ、空力の改善は一部のパーツを変更する程度に留まった。最終的に76年の戦いはテクサスが首位を奪還することとなったが、77年は更に細かな空力改善と馬力の向上を行った連合チームが1位を取る結果となった。
その後も継続的に馬力が上昇していった
GR-1?は、80年に入る頃には950馬力を越えて1000馬力の大台へ到達しようとしていた。その結果、超ロングストレートが存在するコースでは最高速度は350km/hを越えることはしょっちゅうで、380km/hに達することすら珍しくは無くなっていた。
それでも
GR-1?運営は、当時進んでいた燃費規制による間接的な馬力規制などに対して反対の意向を示していた。しかし、81年のレースにて
エクセクア?のレーシングチームの一台が減速しきれずに180km/hでコースアウト、観
客は最高速度の上昇に伴って観客席が移動しており無事、ドライバーも重傷ながら生き残ったものの、車両は復帰不可能な程に大破する、という事故が発生した。これを受けて運営も燃費規制を行う方針に同意し、
GR-1?の車両規定はル・マンプロトタイプからグループCへと移行することとなった。国内メーカーはこれを受けて83年の参戦を確約した上で82年のレースを欠場することを発表し、運営チームも万全の体制に向けて82年のレースは中止するとした。
そして、1982年は後の
アルミヤ連邦共和国モータースポーツの歴史に大きな影響を及ぼす一年となった。
まず、
エクセクア?が
ラッピー?との提携を終了し、日本のマツダとの技術提携を開始するという大きな動きが3月に起きた。当時の
エクセクア?は市販車としてロータリーエンジンを搭載したモデルを発売しており、当時あまりの燃費の悪さに多くの企業が開発を諦めたロータリーエンジンの開発にも積極的な姿勢を見せていた。そこで、そのロータリーエンジンを
GR-1?へ参加する車両に搭載するために、同じくロータリーエンジンレーシングカーを開発していたマツダとの提携を結んだのであった。
次に、
リーベリグループが正式にスポーツカー部門を立ち上げた。テクサスとの提携は続けられ、テクサスがスポーツカー部門にエンジンを提供するという形となった。当時首位争いを繰り広げていたチームのマシンのボディー設計チームが独立したということで、また新たな優勝候補が登場したことになり、83年の開催に大きな期待が持たれることとなった。
最後に、テクサスが10月に、
ラッピー?と共同で新たなレースカテゴリとして
ASCAR?を設立し、NASCARへの参戦も行うという発表を行った。
ASCAR?は
神聖アメリゴ連合帝国で行われていたNASCARを参考としたもので、レギュレーションを殆ど統一し、双方の企業が参入できるようにされた。これはテクサスと
ラッピー?がNASCARへ参戦するためのものでもあったが、なによりも国内メーカーのみで開催する場合、テクサスと
ラッピー?以外の参戦メーカーが期待出来ないことが理由であった。
こうしてモータースポーツの環境に大きな変化が発生した82年が過ぎ、3月に入ると83年の大会に向けて各企業が参戦車両を発表し始めた。テクサスからは
ゲーイ?、
リーベリグループからは
ファルコン?、
ラッピー?からは
グレイハウンド?、そして
エクセクア?からは
デュナミス?が投入されると発表され、各チームの調整が公開されるなど、83年の
GR-1?への期待は過去類を見ないほどの域へ達していた。
こうして始まった83年の
GR-1?は、予想だにしない展開へと突入することとなった。テクサスと
ラッピー?からは3チーム、
エクセクア?からは2チーム、
リーベリグループから1チームのみが出場となったのだが、開始から14時間が経過しようとしていたとき、ほぼ同時にテクサス、
ラッピー?、
エクセクア?のうち1チームの車両が故障を起こした。この故障は深刻なものであり、テクサスと
ラッピー?は現場の修理は不可能だとして離脱したが、
エクセクア?は2時間をかけて修理を行い、なんとか走行を再開した。
続いて、18時間が経過した時点でテクサスのもう1チームのタイヤが2本パンク、そのまま修理を終えて走行を開始していた
エクセクア?の車へと衝突、コースアウトし、炎上する事故が発生した。ドライバーは共に軽傷で済んだものの、テクサスのみならず
エクセクア?の車両も大破し、この時点でテクサスは2チーム、
ラッピー?と
エクセクア?は1チームが離脱することとなった。
さらに、21時間が経過した時点で
ラッピー?の車両もターボに故障が発生し、その20分後にはブレーキとその周辺も故障する事態となった。共に現地での修理は困難であり、ターボだけならまだしも、ブレーキまで故障しては事故が起きる可能性が高いとして、走行の継続を望んでいたドライバーの意見を退けての離脱が決定された。
5/9チームが離脱するという前代未聞の状況は観客に失望を与えると危惧されたが、実際には残った4チームのうち3チームが残りの3時間の間常に優勝をギリギリまで争い続けるという展開となったため、心配は杞憂となった。この3時間のうち一位は8回入れ替わるという前代未聞も事態となり、最終的に
グレイハウンド?が5020.053kmを、
ファルコン?が5014.048kmを、
ゲーイ?が5010.856kmを走行し、
ラッピー?が一位を、
リーベリグループが二位を、
ゲーイ?が三位をとる結果となった。さらに、
エクセクア?が実験目的としてロータリーエンジンを搭載していた車両を運用していたチームは、通常のレシプロエンジンを搭載した車両が故障により脱落したのに対して、燃費規制をものともせずにレースを完走する結果となった。
エクセクア?はその後ロータリーエンジンの搭載へと完全に切り替え、マツダとの技術提携によって開発した
ミカエル?が突如として優勝争いにとび込んだ91年まで優勝争いに加わることは無くなってしまうのだが、それでも燃費規制が新たにかかった24時間耐久レースでロータリーエンジンを搭載した車両が完走するという偉業は、後にロータリーエンジンに対する熱狂的な信仰者を生み出し、世間からの評価もあげる結果となった。
そうして突入した84年のレースでは、ボディを炭素繊維強化プラスチックへ変更しさらなる軽量化を行った上で、余った重量を馬力の上昇のために注ぎ込んだ
リーベリグループの
ゲーイ?の改良型が5124.863kmを走行し優勝。以後は
リーベリグループをテクサスと
ラッピー?が追う展開が続いた。88年にラッピーが
コヨーテ?を投入するも二位に終わり、90年にようやくテクサスが新型車
トニートラ?を投入し優勝を果たしたことで、91年には
リーベリグループも新型車
アプスパフィシック?を開発し、投入することが決定された。
こうして
リーベリグループとテクサスの一騎打ちになると見られていた
GR-1?だが、実際の試合は突如として現れた伏兵によって予想外の展開を迎えることとなった。それが、
ラッピー?との提携を解消してから目立つことが無くなっていた
エクセクア?であった。
目立つことが無くなっていたというのは悪い意味だけではなく、良い意味でもそうだった。マツダとの提携を結んだ
エクセクア?のチームは毎回目立つ故障もなくゴールしており、
エクセクア?が大量の資金を投じながら、マツダの確かな技術力と根性を投じて5年間開発を続けた結果、多数あった問題も解決され、性能も徐々に向上していた。トップ争いに加わることこそ無かったが、その様子は一部のロータリーエンジンファンから根強く支持されることとなり、92年よりロータリーエンジンが禁止となるル・マンはともかく、ロータリーエンジン規制に反対し、搭載を許可し続けると宣言していた
GR-1?であれば、数年以内にはトップ争いに加わることもできるのではないかと期待されていた。
そのような状況で始まった91年のレースは、
リーベリグループと
ラッピー?から4チーム、テクサスから3チーム、
エクセクア?から2チームが出場することとなった。
リーベリグループからは
アプスパフィシック?が、テクサスからは馬力を向上させた
トニートラ?が、
ラッピー?からはエンジンを換装した
コヨーテ?が、そしてエクセクアからは戦いを司る天使の名を冠した
ミカエル?が投入されることとなった。
開催日が大会側の都合によってル・マンと同じ6月22日から23日となり、当初救援として来る予定だったマツダの技術者が参加できず、
エクセクア?の完走すら危ぶまれる中、レースは10時ぴったりにスタートした。
レースは5時間が経過した時点で
アプスパフィシック?が1位、2位、4位、6位、
トニートラ?が5位、7位、11位、
コヨーテ?が3位、8位、12位、13位、そして
ミカエル?が9位と10位という順になっていた。この時11位以下の車両は何かしらのマシントラブルを起こしており、
アプスパフィシック?も4位と6位に落ちた車両は軽微なトラブルに悩まされながら走行を続けている状況であった。
アプスパフィシック?の1位と2位は、3位の
ループス?に対して1周分先行しており、その差自体も徐々に広げていた。
アプスパフィシック?側は余裕の無いレースを嫌って更なるリードを求め、
コヨーテ?側も信頼性に不安を抱えていたものの、敵との距離を詰めたいという考えから双方がペースアップを行った。事前のタイムアタックでの結果の通り
コヨーテ?の方が早く、
トニートラ?側が徐々に差を縮める展開となり、30分後にはペースアップを行わずに様子見をしていた2位の
アプスパフィシック?を、3位だった
コヨーテ?が抜くこととなった。
リーベリグループにとっては
ラッピー?側の周回速度は予想以上のものであったが、元々信頼性に難のある
コヨーテ?がペースアップを行えば、時期に故障によって脱落するだろうという予想の元、
コヨーテ?に合わせてのペースアップはしない方針を決定した。しかし、レース開始から7時間が経過した時点で追い上げを行っていた
コヨーテ?は一切の故障を起こさずに1位となり、
リーベリグループは対応に追われることとなった。最終的に
リーベリグループは1位の
コヨーテ?に対して2位を走る車両のみが付かず離れずのペースを維持し、
コヨーテ?の脱落を狙う作戦へと変更し、1位争いはレース開始から16時間が経過する頃まで無くなることとなった。
しかし、それでもレース自体の熱が冷めることは無かった。
リーベリグループが
コヨーテ?への対応を決める直前、
ミカエル?が
コヨーテ?の8位を抜いて8位に浮上したのである。当時は4位から8位までがかなりの接戦を繰り広げており、何処かがペースをアップをすれば直ぐに順位が入れ替わる可能性がある状態だった。つまり、
ミカエル?は突如として上位争いへと加わったことを意味していたのである。
突如として現れたライバルに、テクサスは対応に追われることとなった。そして、テクサスは
ミカエル?が予選とほとんど同じタイムで走行していることに気が付き、驚愕することとなる。耐久レースというのは車両の信頼性や燃費を考え、全力走行は控えるのが一般的である。そのため、予選とほとんど同じタイムで走行しているというのは明らかに異常であった。とはいえ、全力走行を続けるということは故障を起こす可能性も高いということであり、また、燃費の問題から燃料を使い切るという可能性もあるため、途中で
ミカエル?が離脱することは容易に想像できた。しかし、テクサスはペースアップを行い
ミカエル?に抜かせない選択をした。テクサスのチームリーダーであるヒュースはこの時の選択について、「近年の
エクセクア?の車両がほとんど故障を起こさずに完走していたことを理由としてあげることは出来るかもしれない。ロータリー車の車重制限がが普通より170kgも下げられた830kgを最低値とされてだからというのも理由になる。しかし、いくら信頼性に優れたエンジンであろうと全力走行を続けているなら故障する可能性は極めて高いし、私は
ミカエル?の燃費に関するデータを持っているわけではなかったから、馬鹿みたいに燃料を食うロータリーエンジンを使用している以上、燃料が途中で切れる可能性はいくらでもあった。だから、“賭けだった”という答えが一番正しいだろう」と国営テレビのインタビューで答えている。
賭け紛いの決断が正しいかどうかはすぐに分かることになった。
エクセクア?はテクサスがペースを上げ抜かせない戦略を選んだことを確認したと同時に、もう一台にもペースを上げさせ、9位に落ちた
コヨーテ?を抜いて8位と9位となったのである。つまり、
エクセクア?はペースを上げた一台が十分
トニートラ?と差を広げられるように罠を仕組んだということであった。テクサスの
トニートラ?は、軽微な故障に悩みながらも一定のペースを崩さずに走り続けていた4位と6位の
アプスパフィシック?を抜いて4位と5位となった。抜かれた
アプスパフィシック?は故障を繰り返していたことからペースをあげることに不安を感じていた上、4位を走る
コヨーテ?と8位で構える
トニートラ?との最後のバトルに備えていたため、ペースを早めることはなく、直ぐに
ミカエル?に抜かれて8位へ落ちることとなった。
ミカエル?はその後もペースを落とすことはなかったが、焦った3位の
アプスパフィシック?が
トニートラ?に抜かれない程度までペースを上げたため、順位は1位
コヨーテ?、2位と3位
アプスパフィシック?、4位と5位
コヨーテ?、6位、7位
ミカエル?という順で一時的に落ち着くこととなった。
一時的な落ち着きは、15時間が経過した時点で崩れることとなった。4位を維持していた
コヨーテ?のターボが故障し、ピットインを行ったのである。
これを好機と見た
エクセクア?はドライバーに更なるペースアップを命じ、それを受けた
ミカエル?は予選のタイムを上回る速度で走り始めた。これは予選の直前までパーツの改良と変更を行っており、セッティングを詰められない状態で予選へ挑んでいたため、本戦が初めて完全にセッティングを詰めた状態での全力走行だったからなのだが、それを知らなかった他のチームや観客は驚愕することとなった。
話は戻り、他のチームは予選を超えるタイムで走り続ける
ミカエル?にどう対応するかの判断を迫られることとなった。今レースの
コヨーテ?のように、片方の車両が全力で走り、追撃のために走った他の車両の燃料を使い果たさせることでもう一台が優勝を飾る、という方式は取られたことがある。しかし、
エクセクア?は全台が全力走行を続けているためその可能性はなく、
テクサスは3位でペースを落とさずに走り続ける
アプスパフィシック?と、徐々に追い上げてくる
ミカエル?に挟まれながら決断を迫られた。
「人生で一番悩んだ瞬間だったかもしれない」とヒュースは呟き、こう続けた。
「近年負けを続けていて、全く優勝候補に挙がっていなかった
エクセクア?に負ける訳には行かなかった。しかし、これ以上ペースアップを続けて燃料が持つかと言われれば怪しいという報告が上がっていたし、上位を走っていた二両のコンディションは良いどころか寧ろ悪かった。引き下がれば
ミカエル?の故障を祈るしかなく、更にペースをあげるなら故障を起こさないことと燃料が持つことを祈り続けるしかない。絶対なんて無いと知っているのに絶対を求め続ける葛藤に苛まれながら、私はあの判断を下したんだ」
テクサスが下した判断は現状のペースの維持だった。この決断は、実質的にテクサスが一位をとることを諦めたことを示していた。5位と4位を維持していた
トニートラ?を
ミカエル?が抜き、4位と5位に上がった瞬間、観客は沈黙することとなった。ヒュースは徐々に上の観客席が沈黙していくのを確認し、レース後に飛んでくるであろう多数の批判への覚悟を決めていた、と語る。しかし、観客の沈黙はテクサスの判断に対する失望でも、
エクセクア?に対する怒りによるものでもなかった。観客は「ロータリーエンジンの優勝」という夢が現実味を帯びてきたことに、奇跡が起きようとしていることに、ただ息を飲んでいたのである。
テクサスが勝負から降りたことに安堵した
リーベリグループだったが、勝負から降りたテクサスと同じように、急速に迫り続ける
ミカエル?への対応を迫られていた。3位を走る
アプスパフィシック?はまだ燃料に余裕があったものの、2位を走る車両は燃料に余裕がなく途中で離脱することが殆ど決まっており、後方で様子を伺い続けている
コヨーテ?の追撃に備える必要があった。
最終的に、
リーベリグループはテクサスとは真逆の戦略を選択した。しかし、この選択は致命的なミスとなる。
レース開始から16時間が経過した時点で、先行していた1位と2位が燃料不足によって離脱し、3位を走っていた
アプスパフィシック?は1位となり、
ミカエル?も2位へと上がった。そして、レース開始から21時間が経とうとしていた時、後方にいた
コヨーテ?が追撃を開始した。この時点で6位の
コヨーテ?と1位の差は2週程度であり、
アプスパフィシック?が現状のペースを維持するのであれば、1時間もあれば充分追い付ける程度の差であった。それを受けて、
リーベリグループは1位の
アプスパフィシック?に対して更なるペースアップを命じた。50分が経過した時点で
ミカエル?は追いついてきた
トニートラ?に抜かれて3位となった。観客は
ミカエル?が優勝争いから事実上脱落したことを悔やみ、多くのファンは
リーベリグループと
ラッピー?の一騎打ちとなったレースに集中出来なかったとレース直後の取材で語っていた。
しかし、22時間と15分が経過した時、1位と2位の車両が突然致命的な故障を起こした。
アプスパフィシック?はエンジンの冷却系が故障し、
コヨーテ?はオイル漏れと電気系統の故障が同時に襲いかかった。ピットインした時には既に
アプスパフィシック?のエンジンからは白煙が上がっており、両方とも修理に時間がかかることは明白だった。
修理班はとにかく焦っていた。
リーベリグループは
コヨーテ?のピットインをさほど大きな問題が起きた訳では無いと考えており、1秒でも早く修理しなければ
トニートラ?に差を広げられると考えていた。それに対して、
ラッピー?の技術者は最初こそ楽観視していた。少なくともエンジンに重大なダメージを負っている
アプスパフィシック?より酷い故障ではないだろう、と。しかし、エンジンルームを覗いた修理班はその楽観的な考え方を即座に消し去さらなければならなくなった。オイル漏れ自体深刻なものであり、その修理だけでかなりの時間が必要な上、電気系統の故障は応急処置はともかく完全な修理は不可能で、下手すればリタイアすら視野に入れる必要があった。その瞬間に修理班の脳裏をよぎったのは、
ミカエル?に負けるという最悪の可能性であった。この時点で
ミカエル?と両チームの差は6周程度で、普通なら十分すぎる差であった。しかし、故障の深刻さを考慮するとこの程度のリードは全くもって安心できるものではなった。
約3分40秒毎にひとつずつ増えていく
ミカエル?の周回数は、さらに修理班に焦りをもたらした。しかし修理の進みは遅く、修理に入ってから23分後、ついに
ミカエル?が1位と2位を奪った。最終的に
コヨーテ?は41分をかけて復帰し、
アプスパフィシック?も続くように修理開始から58分でレースへと復帰した。しかし、
コヨーテ?が復帰した時点で約5周、
アプスパフィシック?が復帰した時点で約10周もの差をつけられており、もはや
ミカエル?の優勝はほぼほぼ確定していた。
サーキットは観客席の歓声に包まれ、多数のマスメディアが朝のトップニュースを変更しなければならなくなった。「夢のエンジンが世界を制した」と。そして、その中を走る
ミカエル?のエンジン音は、天を貫くかのようにサーキットに響き渡っていた。
かくして、
ミカエル?は24時間のチェッカーを受け、優勝が確定した。
この時に787Bと
ミカエル?につけられた「天使の絶叫」という渾名は、
エクセクア?の後継車両にも天使の〇〇として引き継がれていく。
1991年以降は後々