1980年台に入り、チェコスロバキアの共産党政権は次第に国民からの経済発展や社会の自由化を重視する改革の実施要求に直面した。経済不振による国民の不満をそらすため、1987年にフサークは共産党書記長職をミロシュ・ヤケシュに譲ったが、大統領にはとどまり、国家の最高権力者として改革への批判を隠さなかった。ヤケシュは限定的な経済改革を手がけたものの、言論の自由化や反体制派への監視を緩める事はしなかった。
1989年、
プラハなどの主要都市の市民達は、毎日のように街へ繰り出しては数万人〜数十万人規模のデモを行い、共産党への圧力を強めていった。
この年の秋には民主化要求は一気に拡大した。11月17日から始まった全国での一斉デモは参加者を増加させ、ハヴェルを代表として反体制勢力が結集した市民フォーラム(後の社民・キ民・自民・市民)は民衆の支持を得た。民主化デモには共産党員も参加し、さらにドゥプチェクなどプラハの春当時の改革派指導者も加わった。そして多くの軍人や警官なども改革に賛同し、上からの鎮圧命令を拒否した。
共産党政権は軍隊による武力鎮圧が不可能となったため、民主化勢力との妥協を決断した。11月24日にヤケシュ書記長が辞任し、12月には民主化の実施を発表したラディスラフ・アダメッツ首相も辞任し、12月10日にはフサーク大統領も非共産党政権の発足を承認して辞職した。後任にはハヴェルが就任し、連邦議会の議長には共産党へ復党しなかったドゥプチェクが就任した。共産党はこの
ビロード革命によって、ほぼ無血のままに41年間維持した一党支配政権を失う事になった。
その後、共産党はアダメッツが書記長となり、1990年2月にフサークを除名して、マルクス・レーニン主義と共産党の名称を維持しながら新たなイメージを打ち出そうとした。また、連邦制によるチェコとスロバキアの対等性を重視するため、3月にボヘミア・モラビア共産党を設立し、スロバキア共産党との協調によってチェコスロバキア共産党が運営される事になった。
6月8日、チェコスロバキアで44年ぶりの自由選挙が行われた。共産党は連邦議会(下院)・民族議会(上院)ともに第2党を守り、影響力を維持したが(民族議会選挙での全国得票率は13.6%)、市民フォーラムが両院で過半数を占めたため、政権復帰はならなかった。選挙後には党名を左翼党へ変更し、社会民主主義路線を採用して、チェコスロバキア共産党は消滅した。
民主化後
1994年の
チェコ=スロバキア連邦共和国憲法施行後、左翼党左派は反民主主義的思想を持つとして違憲判決が出、議会から追放された。
1995年には党綱領を大幅に改正し、社会民主主義色をさらに強め、指導者を全員改革派に入れ替えることにより、党のイメージ改善に成功した。
現在は格差の拡大を憂う労働者や市民などを中心に支持を得ており、似た思想を持つ
チェコ=スロバキア社会民主党との協力を強めている。