タトラ山脈
スロバキアはハンガリー王国の支配下にあり、
ブラチスラヴァ?の福音ルーテル会館では、スロバキア民族運動の中心的立場にあった知識人活動家リュドヴィート・シュトゥールのもとで若い学生たちが学んでいた。ハンガリー当局によってシュトゥールがその職を追われると、1844年、学生たちは抗議の行進を行なった。
この抗議運動の中で「稲妻がタトラの上を走り去り」は誕生した。ヤンコ・マトゥーシュカがスロバキアとポーランド国境にそびえるタトラ山脈を題材に作詞、メロディーはスロバキア民謡の「彼女は小さな井戸を掘った」から採られた。この曲は1848年から1849年にかけてのスロバキア解放運動に参加した義勇兵らの間で人気を博し、1851年に出版された。
1918年のオーストリア・ハンガリー帝国崩壊を受けてチェコスロバキア共和国が成立、1920年に第1節がチェコスロバキアの国歌の一部となった。これはチェコの国歌である「我が家何処や」の第1節に続けて歌われた。