詳細は
チェコ=スロバキアの歴史を参照
エドヴァルド・ベネシュと
トマーシュ・マサリク、ミラン・シュテファーニクらがパリで「チェコスロバキア国民委員会」を設立。
6月29日
連合国が国民委員会を「将来のチェコスロバキア政府の基礎」として承認。
10月18日
国民委員会が「ワシントン宣言」を行い独立を宣言。マサリクを初代大統領とするチェコスロバキア暫定政府を設立。
10月28日
チェコスロバキア国内の国民委員会が独立宣言を行い、プラハの政庁を占拠。後にこの日が独立記念日となる。
11月10日
ズデーテン地方のドイツ人政府へ侵攻。支配下に置く。
サン=ジェルマン条約 によって独立とズデーテン地方の領有が確定。
共和国憲法を制定しチェコスロバキア共和国(第一共和国、Československá republika)成立。
ミュンヘン協定でズデーテン地方をナチス・ドイツに割譲。第一次ウィーン裁定によるスロバキア南部とカルパティア・ルテニア南部のハンガリー割譲決定を受け、スロバキアでの独立運動が激化する。
エドヴァルド・ベネシュ大統領は亡命し、スロバキアの自治を認めたチェコ=スロバキア共和国(第二共和国、Česko-Slovenská republika)が成立。
スロバキア独立国?が独立して第二共和国は解体。チェコは
ボヘミア・モラビア保護領?(ベーメン・メーレン保護領)になる。
スロバキア・ハンガリー戦争によりスロバキア南部もハンガリーに併合。
第二次世界大戦勃発にともない、ロンドンにベネシュを首班とするチェコスロバキア共和国亡命政府が成立。
スロバキア国内で対独抵抗運動のスロバキア民族蜂起が勃発。
スロバキア第一共和国政府消滅。
チェコスロバキア共産党が主導する国民戦線がスロバキア・コシツェに臨時政府を設ける。ベネシュがロンドンから帰国してチェコスロバキア共和国(第三共和国、Československá republika)が復活。
閣内対立による非共産党閣僚の辞任に乗じて第一党のチェコスロバキア共産党書記長
クレメント・ゴットワルト?がベネシュから実権を奪う(二月事件)。総選挙で共産党と共産党主導の国民戦線が圧勝して人民民主主義(lidově-demokratická)宣言を行い、事実上の社会主義国化。国名はチェコスロバキア共和国(Československá republika)のまま変わらず。
社会主義共和国憲法を採択して正式に社会主義国となり、国名をチェコスロバキア社会主義共和国(Československá socialistická republika)に改称。
スロバキア出身の
アレクサンデル・ドゥプチェク?共産党第一書記によって「人間の顔をした社会主義」をスローガンとした自由改革路線(プラハの春)が推進された。
チェコ社会主義共和国(Česká socialistická republika)とスロバキア社会主義共和国(Slovenská socialistická republika)による形式的な連邦制に移行(国名は変わらず)。経済改革なども実施された。
ドプチェクら改革派が失脚し、
グスタフ=フサーク?が第一書記に就任。体制は以前のような強権統治に戻された。
ビロード革命により民主化。
国名をチェコスロバキア連邦共和国に変更。
スロバキア社会主義共和国が3月に「スロバキア共和国」に、次いでチェコ社会主義共和国が「チェコ共和国」にそれぞれ改称。
連邦議会で「ハイフン戦争」と呼ばれる政治論争が起き、国名をチェコ=スロバキア連邦共和国(チェコ語 : Česká a Slovenská Federativní Republika、スロバキア語 : Česká a Slovenská Federatívna Republika)に改称。
ブランデンブルク帝国との間で国境紛争が発生し、緊張が高まる。