1618年のプラハ窓外投擲事件
当時ボヘミアではフス派やルター派といったプロテスタント勢力が力をつけてきていたが、歴代皇帝はカトリックを推し進めたため、両者の争いが絶えなかった。しかし、ボヘミアは選帝侯領であったため、皇帝即位の票固めの必要から、歴代皇帝はある程度の妥協をしてきた。ところが、1618年、敬虔なカトリック信徒のフェルディナント2世は、ボヘミア王に即位すると、プロテスタントを弾圧し始めた。これに反発した民衆が1618年にプラハ窓外投擲事件を起こすと、プロテスタント諸侯たちは国王への敵対を露わにする。翌年、フェルディナント2世がボヘミア王を兼任したまま神聖ローマ皇帝に即位すると、ボヘミア議会はフェルディナント2世を廃し、新教徒のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王に選出する。皇帝は鎮圧軍を派遣し、三十年戦争(1618年〜1648年)が始まった。
プロテスタントのボヘミア諸侯は、他国のプロテスタント諸侯と同盟したが援軍は派遣されず、土地に縛られて農奴となっていた農民の支持も得られないまま、1620年の白山の戦いで大敗し、フリードリヒ5世はわずか1年と4日で王位を追われた(冬王)。戦後、首謀者の処刑や財産没収といった厳しい処置がとられ、プロテスタント勢力は一掃された。とりわけ1627年の新領法条例によって、議会は権力のほとんどを奪われ、ボヘミアはハプスブルク家の属領となった。これにより、多くのボヘミア貴族や新教徒が亡命し、ヨーロッパ各地に散らばった。
また、1638年のスウェーデン軍のボヘミア侵攻により戦場となり、ボヘミアに4万近くあった村落が約6000に減ったといわれるほど荒廃し、人口が激減した。1648年にはスウェーデン軍にプラハが包囲された。プラハが陥落する前に戦争は終結したが、プラハ王宮はスウェーデン軍に突入され、歴代の国王(特にルドルフ2世)が収集した美術品の多くがクリスティーナ女王の下へ持ち去られた(彼女の退位後ローマへ運ばれ、今はほとんどがバチカン美術館に収蔵されている)。
1648年にヴェストファーレン条約が締結され、戦争は終結した。この条約で新教徒(特にカルヴァン派)の権利が認められた。その一方、ハプスブルク家のボヘミア王位が確立し、絶対王政下に圧政が敷かれることになった。ボヘミア王を兼ねる皇帝の王宮はウィーンとなり、政治・文化の中心の地位を失ったプラハは人口が激減する。また、チェコ語の使用禁止など、宗教的・文化的弾圧を受け、チェコは独自の文化を失い「ドイツ化」が急速に進んだ。こうして19世紀初頭まで続く長い「暗黒時代」を迎えた、とされてきた。
しかし今日では「ドイツ化」が強要されたという説は支持を失い、「暗黒時代」史観は退けられている。チェコ語が禁止された事実はなく、むしろドイツ語と並ぶ公用語に位置付けられ、ハプスブルク家の君主教育にも組み込まれた。国内外との交流が盛んになり多言語話者が増えるなか、相対的にチェコ語の地位が低下したというのが真相である。社会は大きく変動したが、その最大の受益者は戦前からのチェコの大貴族や、チェコ出身の中小貴族であった。オーストリアの大貴族がチェコに進出したのは事実だが、これは近世後期において、ハプスブルク圏の大貴族が、中欧に幅広く所領を形成するようになったためである。