架空国家を作ろう 第2.6世界線 - ダヴィト・ルガシヴィリ
ダヴィト・ルガシヴィリ
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生年月日1929年XX月XX日 (2024歳)
政党労働者党
学歴大学のみでよし
前職前ついていた職業
国会議員
当選回数12回
在任期間1959-2004
内務大臣
回数4回
在任期間1990-2003

来歴

アジャラ州バトゥミの港湾労働者の家に生まれる。貧しい生活の中で労働者の待遇改善に期待を抱き、10代から労働者党の活動に参加した。1956年、王国政府により労働者党が体制に対する危険分子として弾圧される。この時、ルガシヴィリ自身も逮捕され、また彼の同志たちの少なくない人数が命を落とした。これを機に王制打倒と労働者国家の建設への志を強める。1959年の王国議会議員選挙で30歳にして初当選。以後、当選を続ける。労働者党では長く内務委員をつとめ、地下活動において勢力を拡大した。1981年、52歳で労働者党の代表に推薦される。1980年の選挙で労働者党は与党連合に迫る議席を獲得しており、労働者国家の建設が近づいていた。しかし、ルガシヴィリ自身は国民人気がなく、次の選挙で労働者党は議席を減少させてしまう。1986年、ルガシヴィリは代表を退き、国民人気が高く憲法制度に詳しいギオルギ・アダナシヴィリが代表となった。以後、ルガシヴィリは内務委員長として労働者党組織の中核となりアダナシヴィリを支えた。1990年、労働者党が史上初めて政権を獲得しアダナシヴィリが首相となると、ルガシヴィリは内務大臣となりアダナシヴィリ政権を支えた。特に、警察機構を有する内務省の権限を最大限活用して王党派勢力の駆逐に努め、労働者共和国の安定を支えた。13年間に亘り内務大臣としてアダナシヴィリ首相を支えたのち、2003年、アダナシヴィリ首相の引退にあわせ、高齢を理由に大臣の地位を退いた。初入閣のときすでに61歳であり、この時74歳であった。アダナシヴィリ引退後のルカ・タイシ体制を支えるため、後継者として輜重委員長として組織に精通しており農業大臣としての経験が豊富な若手のグルゲン・スペレヴィアンに内務委員長と内務大臣を委ねた。しかし、同年タイシ首相が暗殺されスペレヴィアンも負傷すると、国会議員であったルガシヴィリが急遽内務大臣代理として政務に復帰し、不安定な体制を支え王党派勢力の取り締まりに尽力した。また、かつて対立したタマズ・クラスノシヴィリとともに党の重鎮として党の安定に努め、党代表としてレヴァン・マルサウリを推薦した。しかし、こうした重鎮による推薦に連合の若手議員が反発、代表選挙の開催とイオナ・イオナヴァ共同代表の就任を認めさせられることとなった。2004年、内務委員の経験豊富なベサリオン・レネヒに後継をまかせ75歳で政界を引退した。しかし、スペレヴィアンが負傷から復帰するにあたり、ルガシヴィリはスペレヴィアンの王党派への妥協的姿勢や党内改革の意向を問題視し、レネヒに内務委員長を続投させようと策動した。このことが内務委員会の分裂とスペレヴィアン派の党内反対派への転化を招いた。ルガシヴィリはまた外務委員会を優遇するマルサウリの姿勢を問題視し、党内各部局の均衡を訴えた。一方で、こうした党主流派の影響力維持のためのルガシヴィリの策動は大御所による政界への介入と捉えられた。党主流派の顔ぶれも固まり安定感も現れるなか、2007年病没。享年78歳。タイシ前首相以来、労働者党の政治家としては二人目となる国葬に付され、トビリシの内務省庁舎と故郷のバトゥミに記念碑と銅像が設置された。最期まで王党派勢力の抑制と労働者党の安定に力を注いだが、結果的にそれが労働者党の内部分裂を加速させる結果となってしまった。

親族

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エピソード

国民人気は必ずしも高くなかったが、故郷のバトゥミでは地元の大物政治家としてたいへんな人気を集めた。こんにちのバトゥミでは、バトゥミ・ダヴィト・ルガシヴィリ記念国際空港をはじめ、ルガシヴィリの名を冠した多くの施設がある。また、街中のいたるところにルガシヴィリの写真や肖像画が飾られている。

名言

「かつて王党派がいかなる非人道的手法をもって労働者党への弾圧を行ったか、われわれは決して忘れてはならない。それを忘れて王党派との安易な妥協に走る者は、労働者党員でも労働者の味方でもない。」(2004年、労働者党中央大会にて)