架空国家を作ろう 第2.6世界線 - オスマン連邦の宇宙開発史

オスマン連邦の宇宙開発

1940〜1955

オスマン連邦の宇宙開発は弾道ミサイルの研究から始まった。これはロケット砲を大型化したものでせいぜいM2ほどの速度までしか出ない戦域弾道ミサイルであった。簡易的な手動指令誘導の対空ミサイルや対艦ミサイルも開発、配備された。1951年には大気圏外に到達するも再突入時に焼失してしまった。

1956〜1970

前回の反省を生かした帰還船を搭載したロケットは1958年に成功裏に発射され搭乗していた犬も無事回収することとなった。1964年にはオスマン連邦初の有人飛行が行われオスマン連邦の国威を示すもののなった。1968年の有人飛行では再突入時に耐熱パネルが脱落した影響で再突入時に宇宙飛行士2名が殉職する大惨事となった。また、原子炉が宇宙でも使用できることがこの頃判明した。

1971〜1985

1978年には初歩的な長期滞在施設が地球周回軌道上に設置された。これは実験的であり実用的ではなかった。この頃から軍用衛星が登場することとなり様々なタイプの軍用衛星が投入された。中でも宇宙空挺衛星(定員2名)は狂気の沙汰であった。この頃から軌道上での衛星対衛星の戦闘が検討されるようになってきた。このころ宇宙遊泳が始まった。

1986〜2000

1991年には月周回軌道に成功し1996年にはオスマン連邦初の月面調査(無人)が行われた。この時オスマン連邦の国旗を刻んだプレートが投下され代わりに月の石を持ち帰ることとなった。2000年にはオスマン宇宙軌道基地を地球軌道上に設置する計画が発表された。

2001〜

2005年には最低限の軌道基地が完成することとなり運用が開始された。この時に自衛モジュールという武装モジュールが存在した。2012年には計画が完遂されることとなった。2018年には月軌道基地の設置の計画が発表された。