架空国家を作ろう 第2.6世界線 - イリア・イノクヴァ
イリア・イノクヴァ
ილია ინოყვა
写真
生年月日1949年XX月XX日 (2024歳)
政党労働者党
学歴王立大学学士
前職王立博物館学芸員
国会議員
当選回数10回
在任期間1980-2016
文化大臣
回数8回
在任期間1990-2016
首相
回数1回
在任期間2008-2012

来歴

1949年、グリア州オズルゲティに生まれる。郷土史への関心を強め、王立大学で歴史学を学ぶ。のち博物館学芸員の資格を取得し、1972年から王立博物館(現在の国立歴史博物館)で勤務し、主としてジョージア西部の地域文化・民族文化の研究に取り組む。1980年、労働者党から王国議会選挙へ出馬・当選。党の民族文化政策に通じる専門性が買われ、文書委員長へ出世する。1990年の労働者党政権成立に伴い文化大臣に就任、以後26年に亘って文化大臣を務める。党内でも政治経験の豊富な若手であったことから、2004年のタイシ首相暗殺に際して労働者党次期代表の候補に名が挙がるがこれを固辞。しかし、2008年の労働者党代表選挙では、党主流派から請われて出馬、反主流派であったステパネ・ツワシヴィリを破って代表に就任する。同年、ジョージア首相に就任。党内各派の均衡を保つことに尽力し、党の分裂を抑え安定した政権を維持した。この時期党内の亀裂はかなり大きいものとなっており、実際にイノクヴァの退任後間もなく党は分裂するが、4年間に亘ってこうした対立を押さえ込み政権運営を続けた安定感が評価される。2012年、任期満了を機に代表辞任を表明、党主流派の中心であったベサリオン・レネヒの代表就任を後援する。レネヒ内閣においても文化大臣をつとめ政権を支えた。なお、元首相が首相の兼任なしで国務大臣を務めるのは異例のことである。2016年、67歳の年齢を理由に政界引退を表明。

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エピソード

政治家としては非常に淡白であり、権力欲に乏しい人物であった。一方で、もともと博物館員であり、労働者党の重要政策の一つである民族領域自治の一環としての民族文化の育成に関わる専門分野での知見を買われ、請われて労働者党に参加し、若くして文書局長にまで抜擢された。労働者党政権でも文化大臣として民族・地域文化の保護の総責任者を任され、大臣を26年間に亘って努めた。本人は専門分野における貢献を旨としており労働者党代表の地位を一度は固辞したが、2008年の代表選挙においては労働者党の分裂への懸念から党派対立から中立的な立場で政治経験の豊富なイノクヴァ以外に党内をまとめられる人物はいないと考える党主流派の説得を受け出馬した。しかし政権への執着心は弱く、1期4年の任期を満了すると政権をレネヒに譲り自らは大臣として政権を支えた。こうした権力への恬淡とした態度とは裏腹に、政治家としてのバランス感覚には優れており、内部では党内対立の表面化を抑え、外部でも連合やアブハジアとの関係悪化を抑え込んだ。このような調整力の高さから政治家としての器量は歴代首相の中でも評価されており、後代において有力な政治家としての呼び声は高い。

名言

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